メモ

ドストエフスキー『未成年』

もしかしたら、こんなものを書きだしたことが、大きな失策かもしれない。言葉にあらわれるものよりも、心の中にのこっちるもののほうがはるかに多いのである。あなた方の考えというものは、たといそれがつまらないものでも、あなた方の内部にあるあいだはー…

カレル・チャペック『こまった人たち』

寓話集 〈この時代〉 【戦争にはあらず】われわれが本当に戦争を望んでいない、という証拠――それは、宣戦布告をせずに戦っていることだ。 〈寓話〉 【奴隷】わたしはなんでもやれる、ただ誰かがわたしにそうしろと指図するなら。

ガルシン『紅い花』

「有難う。」――彼は立ちどまって葉巻を取ると、神経質にその端を噛み切った。「これは思考の助けになる」と彼は言った、「これは世界だ、小宇宙だ。一方の端にはアルカリがあり、他の端には酸がある。……互いに対立する原理が中和している世界の平衡状態も、…

モーパッサン『脂肪のかたまり』

娼婦がその場にいるせいで、たちまち三人の女は、仲良しと言っていいほど親密な間柄になった。恥知らずな女を前にしては、人妻としての権威にかけ、自分たちは結集しなければならないと思ったのだ。なぜなら合法的な愛は、自由奔放な愛を見下すのを常とする…

ジョルジュ・バタイユ『マダム・エドワルダ』『目玉の話』

『マダム・エドワルダ』 (続ける?そうしようと思ったがもうどうでもいい。興味がなくなったのだ。ものを書くとき私の胸を締め付ける思いについてはすでに語った。すべてがばかげているのではないか?それとも意味があるのだろうか?そう考えると気分が悪く…

小松左京『日本沈没』

「日本――日本か……」田所博士は、ふいにべそをかきそうな、くしゃくしゃの顔になった。声までうるんだみたいな、おかしな具合になった。「日本など――こんな国なんか、わしはどうでもいいんだ。幸長君。――わしには地球がある。大洋と大気の中からもろもろの生…

エーリッヒ・ケストナー『飛ぶ教室』

おとなというものは、どうしてこうも、けろりと、自分の子どものをわすれて、子どもだって、ときにはずいぶん悲しく、不幸なことだってあるのだということを、まるでわからなくなってしまうのでしょう(この機会に、わたしはみなさんに心からおねがいします…

ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』

ヒットラーとのこの和解は、回帰というものが存在しないということに本質的な基礎が置かれている世界の、深い道徳的な倒錯を明らかにしている。なぜならばこの世界ではすべてのことがあらかじめ容認され、あらゆることがシニカルに許されているからである。 …

ショーロホフ『人間の運命』

仕事から疲れて帰って来る、時によると、鬼みてえに意地悪い気持ちで帰って来る。ところが、あれは俺が乱暴なことをいっても、決して乱暴な返事なんかしやしなかった。優しく、静かで、一生懸命ひとを楽に落ち着かせようとしてさ、少ない金でうまいものを食…

三島由紀夫『宴のあと』

彼らの会話は、いかにも記憶の確かさ精密さを競うことに、重きが置かれすぎていた。それをじっときいていると、青年たちが女に関する知識で虚栄心を競っている会話と、どこか似ているような感じがする。不必要な精密さ、不必要な細部への言及、そういうこと…

アルベール・カミュ『幸福な死』

「きみは貧乏なんだ、メルソー。それが、きみがうんざりしている半分の原因なんだ。あとの半分は、きみはいやいやながら自分の貧乏を仕方がないと思っていることにあるのだよ」 メルソーは相変わらずかれに背を向けたまま、風に吹かれる木立を眺めていた。ザ…

オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』

序文 芸術家は美しいものを創造する。 芸術に形を与え、その創造主を隠すのが芸術の意図である。 批評家とは、美しいものから受けた印象を、別の手法や新しい素材で伝えることができる者である。 自伝の形をとるのは、批評の最高の形式であり、最低の形式で…

新渡戸稲造『武士道』

義理は本来、義務以上の何物でもなかった。あえて言葉の由来といえば、たとえば親に対する私たちの行動は、愛が唯一の動機である。だが、それがない場合は、親孝行を強いるための何らかの権威が必要となる。そこで人々はこの権威を義理としたのである。 これ…

村上龍『KYOKO』

「……でもね、ホセはわたしを助けてくれて、救ってくれたの、ただダンスを教えてくれただけなんだからオーバーに聞こえるかも知れないけどね、わたしにとって一番大切なものは何かって教えてくれたんだから、そうでしょ? どんなことがあってもこれがあれば生…

町田康『告白』

身体の中心部は冷えきっているのに皮膚の表面は怖ろしく熱い。身体のなかにおそろしく速いものが疾走しているのに動作はことさらのろのろしているような感覚。そんな奇妙な感覚に熊太郎ははじめ戸惑い、なぜ自分はこんなことになるのか、と訝ったが、しばら…

ニーチェ『善悪の彼岸』

真理が女である、と仮定すれば――、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき…

埴谷雄高『深淵』

――そうだ。権力は理論ではない。それは相反するものを容れる容器だ。それは理論の矛盾など恐れない。一言でいえば、その容器は持続された時間なのだ。俺の右手はいま除かれていてもやがて左手と並んでそこにはいるようになるかもしれない。だが、死者はそこ…

ドストエフスキー『悪霊』

彼女の心中には、彼に対する不断の憎悪、嫉妬、軽蔑の気持にまじって、やむにやまれない愛情が秘められていた。夫人は二十二年このかた、塵っぱひとつ彼の身にかからぬようにと、それこそ乳母のように彼の世話をやいてきた。もし問題が、詩人としての、学者…

ポール・ヴァレリー『テスト氏』

わたしは、文学に対して疑念を抱いていたし、詩というかなり正確な作業に対してさえそうであった。書くという行為は、つねに或る種の「知性の犠牲」を要求するものである。たとえば、文学書を読むような場合、その際の諸条件が言語の極端な性格さと相容れな…

村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』

『蜂蜜パイ』 少なくとももう迷う必要はないんだ、と淳平は思った。決断は既になされたのだ。たとえその決断をしたのが彼以外の人間であったにせよ。 「これは取引なんかじゃない」と高槻は言った。「ディセンシーとも関係ない。お前は小夜子のことが好きな…

ドストエフスキー『いまわしい話』『鰐』

『いまわしい話』 彼はもう星(勲章)を二つも持っていたけれど、天から星をつかみとるような大それたことは嫌いだったし、何事であれ、自分の意見を吐くことは、特に好まなかった。彼は誠実でもあった、というのはつまり、何か特に不誠実なことをしでかさね…

ハーマン・メルヴィル『白鯨』

俺の名はイシミールと呼んでもらおう。数年前に――さよう、なん年前か、正確なことはどうでもいいのだが――財布の中はほとんどからっぽだったし、それに陸ではもうこれと言って興味をひかれるようなこともなかったので、すこし船を乗りまわして、水の世界でも…

ドストエフスキー『死の家の記録』

冬は早く監房の戸がしめられて、みんなが寝しずまるまで、四時間は待たなければならなかった。それまでは――騒がしい音、わめきちらす声々、哄笑、罵り、鎖の音、人いきれ、煤、剃られた頭、烙印を押された顔、ぼろぼろの獄衣、すべてが――罵られ、辱しめられ…

村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』

俺はいったいここで何をしているんだろう、と僕は思った。 「そういうのをメスで切り開いてみたいって思うの。死体をじゃないわよ。死のかたまりみたいなものをよ。そういうものがどこかにあるんじゃないかって気がするのね。ソフトボールみたいに鈍くって、…

マリオ・プーゾ『ゴッドファーザー』

彼はアメリカのイタリア系一世としては上背のあるほうで六フィート近く、五分刈りの濃いくせ毛が彼をいっそう長身に見せていた。また彼は、キューピッドを思わせるような童顔をしていたが、弓形の唇は官能的で、くっきりと割れ目の入った顎に今日に猥褻な魅…

夏目漱石『幻影の盾』『薤露行』『倫敦塔』

『幻影の盾』 騎士の恋には四期があるということをクララに教えたのはその時だとウィリアムは当時の光景を一度に目の前に浮べる。「第一を躊躇の時期と名づける、これは女の方でこの恋を斥けようか、受けようかと思い煩うあいだの名である」といいながらクラ…

夏目漱石『坊っちゃん』

これでも元は旗本だ。旗本の下は清和源氏で、多田の満仲の後裔だ。こんな土百姓とは生れからして違うんだ。ただ知恵のないところが惜しいだけだ。どうしていいか分らないのが困るだけだ。困ったって負けるものか。正直だから、どうしていいか分らないんだ。…

夏目漱石『こゝろ』

私はこういうことでよく先生から失望させられた。先生はそれに気がついているようでもあり、またまったく気がつかないようでもあった。私はまた軽微な失望をくり返しながら、それがために先生から離れて行く気にはなれなかった。むしろそれとは反対で、不安…

夏目漱石『行人』

宅では食卓の上に刺身だの吸物だのが綺麗に並んで二人を待っていた。お兼さんは薄化粧をして二人のお酌をした。時々は団扇を持って自分を扇いでくれた。自分はその風が横顔に当るたびに、お兼さんの白粉の匂をかすかに感じた。そうしてそれが麦酒や山葵の香…

夏目漱石『彼岸過迄』

「じゃ性質はどんな性質でしょう」 性質なら敬太郎にもほぼ見当が付いていた。「穏やかな人らしく思いました」と観察のとおりを答えた。 「若い女と話しているところを見て、そういうんじゃありませんか」 こう言った時、田口の唇の角に薄笑の影がちら付いて…