ポール・ヴァレリー『テスト氏』
わたしは、文学に対して疑念を抱いていたし、詩というかなり正確な作業に対してさえそうであった。書くという行為は、つねに或る種の「知性の犠牲」を要求するものである。たとえば、文学書を読むような場合、その際の諸条件が言語の極端な性格さと相容れないのは周知のことである。知性は、日常言語に対して、本来それにそなわっていないような完璧さや純粋さを、えてして求め勝ちである。ところが、精神を緊張させていなければよろこびを味わえないような読者など、めったにいるものではない。われわれは、面白がらせてやらなければ、読者の注意を惹きえないのでらう。ところで、この種の注意は受身のものだ。
わたくしの魂は、ほかのどんなことよりも、おどろかされることを渇き求めているのです。確かなものを所有することよりも、期待や、危険や、少しばかりの疑いの方が、ずっと魂を高揚させ、生気づけてくれるのです。これはいいことではないと思っています、そのことで自分をいろいろ責めてもみましたけれど、でもやはりわたくしはそういう女なのです。栄光に包まれた神を見るより神を信ずる方がいいと思ったことを何度か懺悔致しましたが、お叱りを受けたものです。贖罪司祭さまは、それは罪というより愚かしいことだとおっしゃいました。
恋人たちがどんなこっけいな名前で呼びあっているかは御存知でしょう。肉体的に親しく結ばれあうと、まるで犬やおおむを呼ぶような呼び方がごく自然に生まれてくるのですね。心情の語る言葉は子供っぽいもの。肉から発する声は、単純なものなのです。それにテストも、恋とは、いっしょにおろかになれることにあると考えています、――愚劣さも獣性もすべて許されてね。そういうわけで、彼も、彼流にわたしを呼びます。いつでもたいてい、わたくしに求めているものに応じた呼び方をするのです。ですから、わたくしを呼ぶ名前のひとことだけで、何を予期すればいいか、何をしなければならないか、察しがつくというわけです。特に何ものぞんでいないときは、存在とか物とか言うんです。時々オアシスと呼ぶんですけれど、これはわたくしの好きな呼び方です。
そうして歩いて行って、行く先は、あなたもここにいらしたら行くのがお好きになるだろうと思いますけれど、あの古い公園なのです、そこへは、考えごとや心配ごとをかかえた人々、自分の心のなかでおしゃべりをするしかないような人々が、夕方になると、まるで水が川へ流れこむようにみんなやって来て、欠かさず顔を合わせるのです。学者、恋人、老人、悟った人、それに聖職者。ありうる限りの、ありとあらゆる種類の別世界の住人たちが集ってくるのです。そういう人たちは、何だか、お互いに遠ざかろうとしているようです。きっとあの人たちは、お互いに知りあわずに眺めあっているのが好きなのですね。他人には伝えようのないその苦しみは、いつだってただ顔をあわすだけなのです。或る人は病気を引きずり、或る人は不安に悩んでいます。これは互いに避けあうかげなのです。でも、他人を避ける場所はここ以外にありません、孤独という誰にも共通した考えが、何かに心を奪われたこれらの人々のひとりびとりを、あらがいようもなく、ここに引き寄せます。わたくしたちも、程なく、死者にこそふさわしいその場所へ出かけるわけです。