メモ

カミュ『幸福な死』

「一つの肉体には、つねにそれに値する理想があるものだ。あえて言うなら、その小石の理想というやつを維持していくためには、半神の肉体が必要だね」 「本当にそうだ」と少し驚いてメルソーが言った。「でも、すべて誇張することはやめましょう。ぼくはたく…

アーウィン・ショー『夏服を着た女たち』

『死んだ騎手の情報』 「われわれの世代は危機に瀕している」と化粧台にのった彼の手紙にはタイプしてあった。「縮小の危険。われわれはあまりにも早く冒険を経験してしまった。愛は親しみに変り、憎悪は嫌悪に、絶望は憂鬱に。情熱は好意に。われわれはささ…

ミラン・クンデラ『冗談』

じっさい、私が女性のどこが好きかと言えば、あるがままのその女性ではなく、その女性が私に訴えるもの、私にとってその女性が体現するものに他ならない。私はふたりの物語の登場人物としてその女性が好きになるのだ。 私は間違いから生まれた事柄も理性と必…

サルトル『悪魔と神』

ゲッツ 坊主、坊主、まじめにしろ。おまえの耳をそぎ落さねばならぬようにするな、そうしたって舌はのこしておくから何にもならんぞ(だしぬけに相手を抱く)仲よくしよう、兄弟!私生児づきあいで仲よくしよう!だって、きさまも、私生児だ!おまえを生むた…

ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』

しかしメルキオルは、他人が期待してることやまた自分みずからが期待してることとは、常に反対のことを行うような類の男であった。かかる人たちは目先のきかないわけではない――目先のきく者は二人前の分別があるそうだが……。彼らは何事にも欺かれることがな…

堀辰雄『風立ちぬ』

それらの日々に於ける唯一の出来事と云えば、彼女がときおり熱を出すこと位だった。それは彼女の体をじりじり衰えさせて行くものにちがいなかった。が、私達はそういう日は、いつもと少しも変らない日課の魅力を、もっと細心に、もっと緩慢に、あたかも禁断…

浅田次郎選『翳りゆく時間』

山田詠美『天国の右の手』 淳士は眼鏡を外して目頭を指で押さえた。 「目が疲れた。外国に来ると色彩が多過ぎるように感じるよ」 「それがほんとなのよ。東京では誰もが色弱になるわ」 「そうでもないよ。きみが、ぼくの視界に飛び込んで来ると、いつもこん…

松本清張『神と野獣の日』

評論家は、この事態について書きはじめた。もとより、その論文が水爆の爆発と同時に灰になることは承知していたが、彼は書かずにはいられなかった。このときほどその評論家は、仲間ぼめや義理づくの八百長や、自己顕示を放擲したことはなかった。彼は、今こ…

和辻哲郎『人間の学としての倫理学』

元来我々の用うる言葉の内antoropos、homo、man、Menschなどに最もよく当たる言葉は「人(にん)」及び「ひと」である。すでにシナの古代において、人は「万物の霊」あるいは生物中の「最霊者」であり、人の人たるゆえんは二足にして毛なきことではなくまさ…

村上春樹『職業としての小説家』

自分のオリジナルの文体なり話法なりを見つけ出すには、まず出発点として「自分に何かを加算していく」よりはむしろ「自分から何かをマイナスしていく」という作業が必要とされるみたいです。考えてみれば、僕らは生きていく過程であまるに多くのものごとを…

プラトン『饗宴』

いやしくも人生のどこかに、生きるに値する所があるとすれならば、まさしくここにおいてこそーー美そのものを見るその人にとって、人生は、生きるに値するものとなりましょう。

『人生について ゲーテの言葉』

『修行時代』 詩というものは、傑作であるか、さもなければ全然存在してはならないものなのだ。それからまた、すぐれたものを作る素質のない者は芸術から遠ざかるべきだし、それへの誘惑も厳に警戒すべきだ。なるほど、どんな人間にも自分が見たものを模写し…

カポーティ短編集

『銀の酒瓶』 「それはきみが想像しているような理由からじゃない。つまり、言い換えれば、欲のためじゃない。欲ではないんだ。だれにとっても魅力なのは謎だ。いいかい、あの銀貨や白銅貨を見て、何と考える?うわあ、ずいぶんあるな、かい?いや、いや。だ…

三島由紀夫『真夏の死』

『翼』 東京の空がそれほど青く、星空があれほど澄明であったのは、生産不振によって都会の煤煙が減少を見たからであるが、そればかりではなく、戦争末期の自然の美しさには、死者の精霊たちの見えざる助力がはたらいているのではないかと思われるふしがあっ…

寺山修司『幸福論』

肉体について考えるとき、私たちが陥りやすいのは「肉体美」という迷信である。偉大な肉体は美しい肉体だ、とした古代ギリシャ人の伝統が、そのまま肉体の思想にとって代ってしまったのは何時頃からだろうか? 本来、肉体には美と同じ重みで真理や善も存在す…

サマセット・モーム『お菓子と麦酒』

他の人も私と同じかどうか知らないが、とにかく私は「美」を長時間熟考することはできない。「エンディミオン」の第一行目を書いた時のキーツほど虚偽の陳述をした詩人はいまいと私には思える。美しい物が私に美的感覚の魔法をかけてくると、私の心はすばや…

スタインベック『気まぐれバス』

「ひどく、切ったのかい?」と、にきびがたずねた。 「いや、軽くすんだほうだ。血を見なきゃ、仕事のかやはつかないっていうぜ。おれの親父はよくそういったものさ」彼はまた血を吸ったが、もう出血はあらかたとまりかけていた。 暖かい淡紅色の黎明が、い…

三島由紀夫『芸術断想』

『芸術断想』 バレエの抽象的な主題を表現するのに、裸体は妨げでないばかりか、裸体が却って修飾を取り去った裸の観念のアラベスクを成就する。しかし、バレエで取り扱われている肉体は、見られたかぎりの、客体としての純粋性を獲得しているので、われわれ…

サンテグジュペリ『星の王子さま』

友だちのことを忘れてしまうのは寂しい。誰にでも友だちがいるわけではない。もしもぼくが彼のことを忘れたら、ぼくもまた数字にしか興味のないただの大人になってしまうだろう。だからぼくは絵具や鉛筆をもう一度買った。 「花の言うことは聞いてはいけない…

チェーホフ『かもめ』『ワーニャ伯父さん』

『かもめ』 あの人は劇場が大好きで、あっぱれ自分が、人類だの神聖な芸術だのに、奉仕しているつもりなんだ。ところが僕に言わせると、当世の劇場というやつは、型にはまった因襲にすぎない。こう幕があがると、晩がたの照明に照らされた三方壁の部屋のなか…

伊藤計劃『虐殺器官』

「漢字、かっこいいですよね」 「読めない文字は情報というよりも意匠だからね」 「読めないからこそカッコいい、てことですか」 「そういう部分もあるな。理解できない文化は排斥の対象になりやすいのと同じくらい、崇拝や美化の対象になりやすいんだよ。エ…

岡本太郎『美の呪力』

私は言いたい。全体をもって爆発し、己れを捨てることだ。捨てるということは一番自分をつかまえることなのである。ああオレは怒ってるな、と腹の底でにっこり笑いながら、真剣に憤っている。それが人間的なのである。表現の側から言えば、目をつりあげて怒…

谷崎潤一郎『谷崎潤一郎フェティシズム小説集』『美食倶楽部』

『谷崎潤一郎フェティシズム小説集』 『悪魔』 ……これが洟の味なんだ。何だかむっとした生臭い匂を舐めるようで、淡い、塩辛い味が、舌の先に残るばかりだ。しかし、不思議に辛辣な、怪しからぬ程面白い事を、おれは見付け出したものだ。人間の歓楽世界の裏…

アルベール・カミュ『戒厳令・正義の人びと』

『戒厳令』 ペスト 死にざまをよくするために整列する、これがかんじんなことなのだ!この代償と引きかえに、わたしは諸君に好意を示す。だがしかし、理窟に合わぬ思想だの、諸君の言う魂の憤激とやらだの、だいそれた反抗を作りだすささやかな熱狂だの、そ…

三島由紀夫『癩王のテラス』

棟梁 おそれながら、あれはまだ見習いの若僧で、経験というものを積んでおりません。 王 (微笑して)そちは想像が経験からしか生まれぬと申すのだな。それならそちの経験も大したものではあるまい。 宰相 この女の目はよその男へひたすら向けられている。こ…

遠藤周作『沈黙』

砂のように静かに流れていく、ここでの毎日。鉄鋼のように張った気持が少しずつ腐蝕していく。あれほど逃れられぬもののように待ち構えていた拷問や肉体的な苦痛も自分にはもう加えられないような気がするのだ。役人や番人は寛大で、肉づきのいい顔をした奉…

D・フェルナンデス『除け者の栄光』

「ジュネは一つの時代の最後の証人なんだ。あなたがある種の風俗を選択したために否応なく反抗や犯罪や悪に親しんだ時代のね。ジュネの天分は、セックス、血、愛、死、美、呪詛などの絶妙な組み合わせを、最後にもう一度燃え上がらせるところにあった。だが…

ヘルマン・ヘッセ『地獄は克服できる』

『無為の技』 ほとんど間断なく、むらなく創作の仕事を続けることができる芸術家などは、まったくまれな例外にすぎない。このようなしだいで、芸術家は何も仕事をしていないように見える創作のできない状態におちいると、芸術に無縁な人はそれを見て軽蔑した…

ジョン・グリーン『さよならを待つふたりのために』

「火をつけなければ、タバコに害はない」オーガスタスがいった。車は縁石のすぐそばだ。「火をつけたことはない。これは象徴なんだ。自分を殺す凶器を歯のあいだにくわえて、だけど殺す力は与えない」 オーガスタスが車のキーを探しているあいだソファに座っ…

武田泰淳『ひかりごけ』

『海肌の匂い』 「才能に応じて各人から。欲望に応じて各人へ。こりゃ、君、理想的なんですよ。そういう社会をつくり出したいために僕ら、努力してるんだからね。各家から平等に労働力を供給する。そして賃銀は平等に分配する。網元も資本主もいない。ダイボ…