夏目漱石『こゝろ』

私はこういうことでよく先生から失望させられた。先生はそれに気がついているようでもあり、またまったく気がつかないようでもあった。私はまた軽微な失望をくり返しながら、それがために先生から離れて行く気にはなれなかった。むしろそれとは反対で、不安にうごかされるたびに、もっと前へ進みたくなった。もっと前へ進めば、私の予期するあるものが、いつか目の前に満足に現れてくるだろうと思った。私は若かった。けれどもすべての人間に対して、若い血がこうすなおに働こうとは思わなかった。私はなぜ先生に対してだけ、こんな心持ちが起こるのかわからなかった。それが先生の亡くなった今日になって、はじめてわかってきた。先生ははじめから私をきらっていたのではなかったのである。先生が私に示した時々の素気ない挨拶や冷淡にみえる動作は、私を遠ざけようとする不快の表現ではなかったのである。いたましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだからよせという警告を与えたのである。ひとのなつかしみに応じない先生は、ひとを軽蔑するまえに、まず自分を軽蔑していたものとみえる。

先生はこれらの墓標が現わすさまざまの様式に対して、私ほど滑稽もアイロニーも認めてないらしかった。私が丸い墓石だの細長い御影の碑だのをさして、しきりにかれこれ言いたがるのを、はじめのうちは黙って聞いていたが、しまいに「あなたは死という事実をまだまじめに考えたことがありませんね」と言った。私は黙った。先生もそれぎりなんとも言わなくなった。

人間を愛しうる人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐にはいろうとするものを、手をひろげて抱き締めることのできない人、――これが先生であった。

「あなたは私に会ってもおそらくまだ寂しい気がどこかでしているでしょう。私にはあなたのためにその寂しさを根元から引き抜いてあげるだけの力がないんだから、あなたはほかの方を向いていまに手を広げなければならなくなります。いまに私の家の方へは足が向かなくなります」
先生はこう言って寂しい笑い方をした。

「珍しいこと。私に飲めとおっしゃったことはめったにないのにね」
「お前はきらいだからさ。しかしたまには飲むといいよ。いい心持ちになるよ」
「ちっともならないわ。苦しいぎりで。でもあなたはたいへん御愉快そうね、少し御酒を召しあがると」
「時によるとたいへん愉快になる。しかしいつでもというわけにはいかない」
「今夜はいかがです」
「今夜はいい心持ちだね」
「これから毎晩少しずつ召しあがるとよござんすよ」
「そうはいかない」
「召しあがってくださいよ。そうほうが寂しくなくっていから」

「子供はいつまでたったってできっこないよ」と先生が言った。
奥さんが黙っていた。「なぜです」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」と言って高く笑った。

「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻以外の女はほとんど女として私に訴えないのです。妻のほうでも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味からいって、私々は最も幸福に生まれた人間の一対であるべきはずです」

「君は恋をしたことがありますか」
私はないと答えた。
「恋をしたくはありませんか」
私は答えなかった。
「したくないことはないでしょう」
「ええ」
「君は今あの男と女を見て、冷評しましたね。あの冷評のうちには君が恋を求めながら相手を得られないという不快の声が交っていましょう」
「そんなふうに聞こえましたか」
「聞こえました。恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋は残酷ですよ。わかっていますか」
私は急に驚かされた。なんとも返事をしなかった。

「私の胸の中にこれという目的物は一つもありません。私は先生に何も隠してはいないつもりです」
「目的物がないから動くのです。あればおちつくだろうと思って動きたくなるのです」
「今それほど動いちゃいません」
「あなたは物足りない結果私の所に動いてきたじゃありませんか」
「それはそうかもしれません。しかしそれは恋とは違います」
「恋に上る階段なんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」
「私には二つのものがまったく性質を異にしているように思われます」
「いや同じです。私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです」

「かつてはその人の膝の前にひざまずいたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬をしりぞけたいと思うのです。私は今よりいっそう寂しい未来の私を我慢する代りに、寂しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己とにみちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの寂しさを味わわなくてはならないでしょう」

「あなたは学問をするかただけあって、なかなかおじょうずね。からっぽな理窟を使いこなすことが。世の中がきらいになったから、私までもきらいになったんだともいわれるじゃありませんか。それとおんなじ理窟で」
「両方ともいわれることはいわれますが、この場合は私のほうが正しいのです」
「議論はいやよ。よく男のかたは議論だけなさるのね。おもしろそうに。空の杯でよくああ飽きずに献酬ができると思いますわ」
奥さんの言葉は少し手ひどかった。しかしその言葉の耳ざわりからいうと、けっして猛烈なものではなかった。自分に頭脳のあることを相手に認めさせて、そこに一種の誇りを見いだすほどに奥さんは現代的でなかった。奥さんはそれよりもっと底の方に沈んだ心を大事にしているらしくみえた。

私は女というものに深い交際をした経験のない迂闊な青年であった。男としての私は、異性に対する本能から、憧憬の目的物として常に女を夢みていた。けれどもそれはなつかしい春の雲をながめるような心持ちで、ただ漠然と夢みていたにすぎなかった。だから実際の女の前へ出ると、私の感情が突然変ることが時々あった。私は自分の前に現われた女のためにひきつけられる代りに、その場に臨んでかえって変な反発力を感じた。奥さんに対した私にはそんな気がまるで出なかった。ふつう男女のあいだに横たわる思想の不平均という考えもほとんど起こらなかった。私は奥さんの女であるということを忘れた。私はただ誠実なる先生の批評家および同情家として奥さんをながめた。

「私はとうとう辛抱しきれなくなって、先生に聞きました。私に悪いところがあるなら遠慮なく言ってください、改められる欠点なら改めるからって。すると先生は、お前に欠点なんかありゃしない、欠点はおれのほうにあるだけだと言うんです。そう言われると、私悲しくなってしようがないんです、涙が出てなおのこと自分の悪いところが聞きたくなるんです」
奥さんは自分の目のうちに涙をいっぱいためた。

先生の返事が来た時、私はちょっと驚かされた。ことにその内容が特別の用件を含んでいなかった時、驚かされた。先生はただ親切ずくで、返事を書いてくれたんだと私は思った。そう思うと、その簡単な一本の手紙が私にはたいそうな喜びになった。

私がのつそつしだすと前後して、父や母の目にも今まで珍しかった私がだんだん陳腐になってきた。これは夏休みなどに国へ帰るだれもが一様に経験する心持ちだろうと思うが、当座の一週間ぐらいは下にも置かないように、ちやほや歓待されるのに、その峠を定規どおり通り越すと、あとはそろそろ家族の熱がさめてきて、しまいにはあっても無くってもかまわないもののように粗末に扱われがちになるものである。私も滞在中にその峠を通り越した。そのうえ私は国へ帰るたびに、父にも母にもわからない変なところを東京から持って帰った。昔でいうと、儒者の家へ切支丹のにおいを持ち込むように、私の持って帰るものは父とも母とも調和しなかった。むろん私はそれを隠していた。けれどももともと身についているものだから、出すまいと思っても、いつかそれが父や母の目にとまった。私はついおもしろくなくなった。早く東京へ帰りたくなった。

「よくころりと死ぬ人があるじゃありませんか。自然に。それからあっと思う間に死ぬ人もあるでしょう。不自然な暴力で」
「不自然な暴力ってなんですか」
「なんだかそれは私にもわからないが、自殺する人はみんな不自然な暴力を使うんでしょう」
「すると殺されるのも、やはり不自然な暴力のかげですね」
「殺されるほうはちっとも考えていなかった。なるほどそういえばそうだ」

「田舎者は都会のものより、かえって悪いくらいなものです。それから、君は今、君の親戚なぞのうちに、これといって、悪い人間はいないようだと言いましたね。しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんなふつうの人間なんです。それが、いざというまぎわに、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」

「あなたは私の思想とか意見とかいうものと、私の過去とを、ごちゃごちゃに考えているんじゃありませんか。私は貧弱な思想家ですけれども、自分の頭でまとめあげた考えをむやみに人に隠しやしません。隠す必要がないんだから。けれど私の過去をことごとくあなたの前に物語らなくてはならないとなると、それはまた別問題になります」
「別問題とは思われません。先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを切り離したら、私にはほとんど価値のないものになります。私は魂の吹き込まれていない人形を与えられただけで、満足はできないのです」
先生はあきれたと言ったふうに、私の顔を見た。巻煙草を持っていたその手が少しふるえた。
「あなたは大胆だ」
「ただまじめなんです。まじめに人生から教訓を受けたいのです」
「私の過去をあばいてもですか」
あばくという言葉が突然恐ろしい響きをもって、私の耳を打った。私は今私の前にすわっているのが、一人の罪人であって、ふだんから尊敬している先生でないような気がした。先生の顔は青かった。
「あんたはほんとうにまじめなんですか」と先生が念を押した。「私は過去の因果で、人を疑りつけている。だからじつはあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬまえにたった一人でいいから、ひとを信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたは腹の底からまじめですか」
「もし私の命がまじめなものなら、わたしの今言ったこともまじめです」
私の声はふるえた。
「よろしい」と先生が言った。「話しましょう。私の過去を残らず、あなたに話してあげましょう。その代り……。いやそれはかまわない。しかし私の過去はあなたにとってそれほど有益でないかもしれませんよ。聞かないほうがましかもしれませんよ。それから、――今は話せないんだから、そのつもりでいてください。適当の時機が来なくっちゃ話さないんだから」
私は下宿へ帰ってからも一種の圧迫を感じた。

「おれが死んだら、おれが死んだらって、まあ何べんおっしゃるの。後生だからもういいかげんにして、おれが死んだらはよしてちょうだい。縁起でもない。あなたが死んだら、なんでもあなたの思いどおりにしてあげるから、それでいいじゃありませんか」

「なにね、自分で死ぬ死ぬって言う人に死んだためしはないんだから安心だよ。お父さんなんぞも、死ぬ死ぬって言いながら、これからさきまだ何年生きるかわかるまいよ。それよりか黙ってる丈夫な人のほうがけんのんさ」
私は理窟から出たとも統計から出たとも知れない、この陳腐なような母の言葉を黙然と聞いていた。

小勢な人数には広すぎる古い家がひっそりしている中に、私は行李をといて書物をひもときはじめた。なぜか私は気がおちつかなかった。あのめまぐるしい東京の下宿の二階で、遠く走る電車の音を耳にしながら、ページを一枚一枚にまくっていくほうが、気に張りがあって心持ちよく勉強ができた。

兄の頭にも私の胸にも、父はどうせ助からないという考えがあった。どうせ助からないものならばという考えもあった。我々は子として親の死ぬのを待っているようなものであった。しかし子としての我々はそれを言葉のうえに表わすのをはばかった。そうしてお互いにお互いがどんなことを思っているかをよく理解し合っていた。

先生先生と私が尊敬する以上、その人は必ず著名の士でなくてはならないように兄は考えていた。少なくとも大学の教授ぐらいだろうと推察していた。名もない人、何もしていない人、それがどこに価値をもっているだろう。兄の腹はこの点において、父とまったく同じものであった。けれども父が何もできないから遊んでいるのだと速断するのにひきかえて、兄は何かやれる能力があるのに、ぶらぶらしているのはつまらん人間にかぎるといったふうの口吻をもらした。
「イゴイストはいけないね。何もしないで生きていようというのは横着な料簡だからね。人は自分のもっている才能をできるだけ働かせなくっちゃうそだ」
私は兄に向かって、自分の使っているイゴイストという言葉の意味がよくわかるかと聞き返してやりたかった。

私は死にひんしている父のてまえ、その父にいくぶんでも安心させてやりたいと祈りつつある母のてまえ、働かなければ人間でないようにいう兄のてまえ、その他妹の夫だの伯父だの叔母だののてまえ、私のちっとも頓着していないことに、神経を悩まさなければならなかった。

「自由が来たから話す。しかしその自由はまた永久に失われなければならない」
私は心のうちでこうくり返しながら、その意味を知るに苦しんだ。私は突然不安に襲われた。

私はその時心のうちで、はじめてあなたを尊敬した。あなたが無遠慮に私の腹の中から、ある生きたものをつらまえようという決心を見せたからです。私の心臓を立ち割って、暖かく流れる血潮をすすろうとしたからです。その時私はまだ生きていた。死ぬのがいやであった。それで他日を約して、あなたの要求をしりぞけてしまった。私は今自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。私の鼓動がとまった時、あなたの胸に新しい命が宿ることができるなら満足です。

香をかぎうるのは、香をたきだした瞬間にかぎるごとく、酒を味わうのは、酒を飲みはじめた刹那にあるごとく、恋の衝動にもこういうきわどい一点が、時間のうえに存在しているとしか思われないのです。一度平気でそこを通り抜けたら、慣れれば慣れるほど、親しみが増すだけで、恋の神経はだんだん麻痺してくるだけです。

私の世界は掌をひるがえすように変りました。もっともこれは私にとってはじめての経験ではなかったのです。私が十六、七の時でしたろう、はじめて世の中に美しいものがあるという事実を発見した時には、一度にはっと驚きました。何べんも自分の目を疑って、何べんも自分の目をこすりました。そうして心の中でああ美しいと叫びました。十六、七といえば、男でも女でも、俗にいう色気のつくころです。色気のついた私は世の中にある美しいものの代表者として、はじめて女を見ることができたのです。今までその存在に少しも気のつかなかった異性に対して、盲目の目がたちまちあいたのです。それ以来私の天地はまったく新しいものとなりました。

私は冷ややかな頭で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べるほうが生きていると信じています。血の力で体が動くからです。言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働きかけることができるからです。

私は喜んでこのへたな生花をながめては、まずそうな琴の音に耳を傾けました。

お嬢さんはただ笑っているのです。私はこんな時に笑う女がきらいでした。若い女に共通な点だといえばそれまでかもしれませんが、お嬢さんもくだらないことによく笑いたがる女でした。

私はそこにすわって、よく書物をひろげました。Kは何もせずに黙っているほうが多かったのです。私にはそれが考えにふけっているのか、景色にみとれているのか、もしくは好きな想像を描いているのか、まったくわからなかったのです。私は時々目をあげて、Kに何をしているのだと聞きました。Kは何もしていないと一口答えるだけでした。私は自分のそばにこうじっとしてすわっているものが、Kでなくって、お嬢さんだったらさぞ愉快だろうと思うことがよくありました。それだけならまだいいのですが、時にはKのほうでも私と同じような希望をいだいて岩の上にすわっているのではないかしらと忽然疑いだすのです。するとおちついてそこに書物をひろげているのが急にいやになります。私は不意に立ち上がります。そうして遠慮のない大きな声を出してどなります。まとまった詩だの歌だのをおもしろそうに吟ずるようなてぬるいことはできないのです。ただ野蛮人のごとくにわめくのです。ある時私は突然彼の襟首をうしろからぐいとつかみました。こうして海の中へ突き落としたらどうすると言ってKに聞きました。Kは動きませんでした。後向きのまま、ちょうどいい、やってくれと答えました。私はすぐ首筋をおさえた手を放しました。
Kの神経衰弱はこの時もうだいぶよくなっていたらしいのです。それと反比例に、私のほうはだんだん過敏になってきていたのです。私は自分よりおちついているKを見て、うらやましがりました。また憎らしがりました。彼はどうしても私に取り合う気色を見せなかったからです。私にはそれが一種の自信のごとく映りました。しかしその自信を彼に認めたところで、私はけっして満足できなかったのです。私の疑いはもう一歩前へ出て、その性質を明らめたがりました。彼は学問なり事業なりについて、これから自分の進んで行くべき前途の光明を再び取り返した心持ちになったのだろうか。たんにそれだけならば、Kと私との利害になんの衝突の起こるわけはないのです。私はかえって世話のしがいがあったのをうれしく思うくらいなものです。けれども彼の安心がもしお嬢さんに対してであるとすれば、私はけっして彼を許すことができなくなるのです。不思議にも彼は私のお嬢さんを愛している素振りにまったく気がついていないように見えました。むろん私もそれがKの目につくようにわざとらしくはふるまいませんでしたけれども。Kは元来そういう点にかけると鈍い人なのです。私には最初からKなら大丈夫という安心があったので、彼をわざわざ家へ連れて来たのです。

『もうその話はやめよう』と彼が言いました。彼の目にも彼の言葉にも変に悲痛なところがありました。私はちょっと挨拶ができなかったのです。するとKは、『やめてくれ』と今度は頼むように言い直しました。私はその時彼に向かって残酷な答を与えたのです。狼がすきを見て羊の咽喉笛へ食らいつくように。
『やめてくれって、ぼくが言いだしたことじゃない、もともと君のほうから持ち出した話じゃないか。しかし君がやめたければ、やめてもいいが、ただ口の先でやめたってしかたがあるまい。君の心でそれをやめるだけの覚悟がなければ。いったい君は平生の主張をどうするつもりなのか』
私がこう言った時、背の高い彼はしぜんと私の前に萎縮して小さくなるような感じがしました。彼はいつも話すとおりすこぶる強情な男でしたけれども、一方ではまた人一倍の正直者でしたから、自分の矛盾などをひどく非難される場合には、けっして平気でいられない質だったのです。私は彼の様子を見てようやく安心しました。するとかれは卒然『覚悟?』と聞きました。そうして私がまだなんとも答えないさきに『覚悟――覚悟ならないこともない』とつけ加えました。彼の言葉は独言のようでした。また夢の中の言葉のようでした。

奥さんの言うところを総合して考えてみると、Kはこの最後の打撃を、最もおちついた驚きをもって迎えたらしいのです。Kはお嬢さんと私とのあいだに結ばれた新しい関係について、最初はそうですかとただ一口言っただけだたつぉうです。しかし奥さんが、『あなたも喜んでください』と述べた時、彼ははじめて奥さんの顔を見て微笑をもらしながら、『おめでとうございます』と言ったまま席を立ったそうです。そうして茶の間の障子をあけるまえに、また奥さんを振り返って、『結婚はいつですか』と聞いたそうです。それから『何かお祝いをあげたいが、私は金がないからあげることができません』と言ったそうです。奥さんの前にすわっていた私は、その話を聞いて胸がふさがるような苦しさを覚えました。

その時私の感じた第一の感じは、Kから突然恋の自白を聞かされた時のそれとほぼ同じでした。私の目は彼の部屋の中を一目見るやいなや、あたかもガラスで作った義眼のように、動く能力を失いました。私は棒立ちに立ちすくみました。それが疾風のごとく私を通過したあとで、私はまたああしまったと思いました。もう取り返しがつかないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯をものすごく照らしました。そうして私はがたがたふるえだしたのです。
それでも私はついに私を忘れることができませんでした。私はすぐ机の上に置いてある手紙に目をつけました。それは予期どおり私の名あてになっていました。私は夢中で封を切りました。しかし中には私の予期したような事はなんにも書いてありませんでした。私は私にとってどんなにつらい文句がその中に書きつらねてあるだろうと予期したのです。そうして、もしそれが奥さんやお嬢さんの目に触れたら、どんなに軽蔑されるかもしれないという恐怖があったのです。私はちょっと目を通しただけで、まず助かったと思いました(もとより世間体のうえだけで助かったのですが、その世間体がこの場合、私にとって非常な重大事件に見えたのです)。
手紙の内容は簡単でした、そうしてむしろ抽象的でした。自分は薄志弱行でとうてい行先の望みがないから、自殺するというだけなのです。それから今まで私に世話になった礼が、ごくあっさりした文句でそのあとにつけ加えてありました。世話ついでに死後の片付方も頼みたいという言葉もありました。奥さんに迷惑をかけてすまんからよろしくという詫をしてくれという句もありました。国もとへは私から知らせてもらいたいという依頼もありました。必要な事はみんな一口ずつ書いてあるなかにお嬢さんの名前だけはどこにも見えません。私はしまいまで読んで、すぐKがわざと回避したのだということに気がつきました。しかし私のもっと痛切に感じたのは、最後に墨の余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句でした。
私はふるえる手で、手紙を巻き収めて、再び封の中へ入れました。私はわざとそれをみんなの目のつくように、下のとおり机の上に置きました。そうして振り返って襖にほとばしっている血潮をはじめて見たのです。

『奥さん、Kは自殺しました』と私がまた言いました。奥さんはそこに居すくまったように、私の顔を見て黙っていました。その時私は突然奥さんの前へ手を突いて頭を下げました。『すみません。私が悪かったのです。あなたにもお嬢さんにもすまないことになりました』とあやまりました。私は奥さんと向かい合うまで、そんな言葉を口にする気はまるでなかったのです。しかし奥さんの顔を見た時不意に我とも知らずそう言ってしまったのです。Kにあやまることのできない私は、こうして奥さんとお嬢さんにわびなければいられなくなったのだと思ってください。つまり私の自然が平生の私を出し抜いてふらふらと懺悔の口を開かしたのです。奥さんがそんな深い意味に、私の言葉を解釈しなかったのは私にとってさいわいでした。青い顔をしながら、『不慮の出来事ならしかたがないじゃありませんか』となぐさめるように言ってくれました。しかしその顔には驚きと恐れとが彫りつけられたように、硬く筋肉をつかんでいました。

お嬢さんは泣いていました。奥さんも目を赤くしていました。事件が起こってからそれまで泣くことを忘れていた私は、その時ようやく悲しい気分に誘われることができたのです。私の胸はその悲しさのために、どのくらいくつろいだかしれません。苦痛と恐怖でぐいと握り締められた私の心に、一滴の潤いを与えてくれたものは、その時の悲しさでした。

その時妻はKの墓をなでてみてりっぱだと評していました。その墓は大したものではないのですけれども、私が自分で石屋へ行って見立てたりした因縁があるので、妻は特にそう言いたかったのでしょう。私はその新しい墓と、新しい私の妻と、それから地面の下に埋められたKの新しい白骨とを思い比べて、運命の冷罵を感ぜずにはいられなかったのです。私はそれ以後けっして妻といっしょにKの墓参りをしないことにしました。

私は妻と顔を合わせているうちに、卒然Kにおびやかされるのです。つまり妻が中間に立って、Kと私をどこまでも結びつけて離さないようにするのです。妻のどこにも不満を感じない私は、ただこの一点において彼女を遠ざけたがりました。

叔父に欺かれた当時の私は、ひとの頼みにならないことをつくづくと感じたには相違ありませんが、ひとを悪くとるだけあって、自分はまだ確かな気がしていました。世間はどうあろうともこのおれはりっぱな人間だという信念がどこかにあったのです。それがKのためにみごとに破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。ひとに愛想を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。

私はただ人間の罪というものを深く感じたのです。その感じが私をKの墓へ毎月行かせます。その感じが私に妻の母の看護をさせます。そうしてその感じが妻に優しくしてやれと私に命じます。私はその感じのために、知らない路傍の人から鞭たれたいとまで思ったこともあります。こうした階段をだんだん経過してゆくうちに、人に鞭たれるよりも、自分で自分を鞭つべきだという気になります。自分で自分を鞭つよりも、自分で自分を殺すべきだという考えが起こります。私はしかたがないから、死んだ気で生きていこうと決心しました。