ドストエフスキー『死の家の記録』

冬は早く監房の戸がしめられて、みんなが寝しずまるまで、四時間は待たなければならなかった。それまでは――騒がしい音、わめきちらす声々、哄笑、罵り、鎖の音、人いきれ、煤、剃られた頭、烙印を押された顔、ぼろぼろの獄衣、すべてが――罵られ、辱しめられたものばかりだ……それにしても、人間は生きられるものだ!人間はどんなことにでも慣れられる存在だ。わたしはこれが人間のもっとも適切な定義だと思う。

労働と、合法的な正当な所有権がなければ、人間は生活することができず、堕落して、野獣と化してしまう。だから監獄の囚人たちは、自然の要求と一種の自己保存の気持ちから、それぞれ自分の手職やしごとをもつようになるのだった。

囚人にとって金よりもひとつ上のものとは、いったい何だろう?自由、あるいは自由に対するせめてもの憧れである。囚人は空想が好きである。これについてはあとですこしふれようと思うが、言葉ついでに、信じられないかもしれないが、わたしは、二十年の刑に服している囚人から、ひどく落ち着きはらって、「まあ、そのうち、ありがたいことに、刑期が満了したら、そのときこそ……」というような話を、直接に何度も聞かされたのである。『囚人』という言葉の意味は自由意志のない人間ということである。ところが、金を使うことによって、彼はもう自分の意志で行動しているのである。どんな刻印を押されていようが、足枷をつけられていようが、呪わしい監獄の柵で神の世界からさえぎられ、檻の中の獣のようにとじこめられていようが――彼はやはり酒のような、かたく禁じられている楽しみを買うことができるし、女を抱くこともできるし、ときには(いつもうまくゆくとはかぎらないが)廃兵や下士官のような身近な役人を買収することさえできるのだ。

何年間もおとなしく模範的な暮しをして、りっぱな行いのために囚人頭にさえ任命された囚人が、突然何のいわれもなく――まるで悪魔にとりつかれたみたいに――浮かれだして、酒を飲んだり、あばれたり、ときにはわけもなくいきなり刑法にふれるような犯罪を犯したり、あるいはあからさまに上司を侮辱するようなことをしたり、あるいはだれかを殺したり、暴力を振ったりなどして、役人たちをびっくりさせることがときどきある。みんなそれを見て、唖然とするが、しかし、だれよりもそんなことをしなそうに思える人間に、突然こんな爆発が起る理由は、おそらく――個性のもだえるようなはげしい発現であり、自分自身に対する本能的な憂愁であり、自分を、自分の卑しめられた個性を示してやりたい願望であり、それが不意にあらわれて、憎悪、狂憤、理性の昏迷、発作、痙攣にまで高まったものであろう。

おお、見よ!人間らしい扱いは、いつか昔に神を忘れてしまったような者をさえ、人間にひきもどすことができるのである。こうした『不幸な人たち』にこそ、もっとも人間らしい扱いが必要なのだ。この救いこそ彼らの喜びなのである。

ついでに言っておくが、囚人に足枷をはめるのは、囚人が逃げないため、あるいは逃げるのをさまたげるため、ただそれだけのためなのだろうか?ぜんぜんちがう。足枷は――恥辱をあたえる一つの罰なのである、恥辱と苦痛、肉体と精神に加えられる罰なのである。

暴虐は習慣である。それは成長する性質をもち、しまいには、病気にまで成長する。わたしが言いたいのは、どんなりっぱな人間でも習慣によって鈍化されると、野獣におとらぬまでに暴虐になれるものだということである。血と権力は人を酔わせる。粗暴と堕落は成長する。知と情は、ついには、甘美のもっとも異常な現象をも受け容れるようになる。暴虐者の内部の個人と社会人は永久に亡び去り、人間の尊厳への復帰と、懺悔による贖罪と復活は、ほとんど不可能となる。加えて、このような暴虐の例と、それが可能だという考えは、社会全体にも伝染的な作用をする。このような権力は誘惑的である。このような現象を平気で見ている社会は、すでにその土台が感染しているのである。約言すれば、他の人間に対する体刑の権利がある人間にあたえられるということは、社会悪の一つであり、社会がその内部にもつ文明のいっさいの萌芽と、いっさいのこころみを根絶するもっとも強力な手段の一つであり、社会を絶対に避けることのできぬ崩壊へみちびく完全な要因である。

「おい、おれは女房もちだったんだぜ、貧乏人は女房もつとよくねえよ、なにしろ夜が短けえでな、かわいがるひまがねえ!」

「じゃ、さようなら!さようなら!」と囚人たちはとぎれとぎれに、荒っぽいが、何か満足そうな声々で言った。
そうだ、さようなら!自由、新しい生活、死よりの復活……なんというすばらしい瞬間であろう!