埴谷雄高『深淵』

――そうだ。権力は理論ではない。それは相反するものを容れる容器だ。それは理論の矛盾など恐れない。一言でいえば、その容器は持続された時間なのだ。俺の右手はいま除かれていてもやがて左手と並んでそこにはいるようになるかもしれない。だが、死者はそこへはいれない……そうだ。死者はそこへはいれない……。いいか。君と話しているうちに俺にはっきりしてきたことがある。危いかな、俺もまた自ら気づかず、使者を目指していたのだった。俺がよく思い浮かべるイメーヂのなかの渇望は、君の死者の理論の完璧性とまったく同じ渇望の意味をもっていたのだ。いいか。闘いに疲れて膝をかかえて俯くとき、俺にはいつもこういうイメーヂがうかんだのだ。……われわれは認識者となったゴリラである。試行錯誤のあと食物に到達したゴリラである。そして食し性交したあと憂愁の裡に認識者となったゴリラの苦悩の顔を脳裡に描いた。認識者となったゴリラの逞しい手と足は思い浮かばなかったのだ。おそらく、俺の右手の敗北は、いつも闘いに疲れて膝を抱えて俯向くときのこの苦悩への陶酔に根ざしている。俺はそれをいま悟ったのだ。いまは、俺は還ってゆかねばならない。逞しい手と足をふるう闘うゴリラをひきつれて。

――ここにある種のガスがあります。
――ガス……?それが処分ですか。
――そうです。そのガスを知らずに呼吸している裡に、そのひとに自然なほんとうの発狂状態がやってくるのです。