村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』

俺はいったいここで何をしているんだろう、と僕は思った。

「そういうのをメスで切り開いてみたいって思うの。死体をじゃないわよ。死のかたまりみたいなものをよ。そういうものがどこかにあるんじゃないかって気がするのね。ソフトボールみたいに鈍くって、やわらかくて、神経が麻痺してるの。それを死んだ人の中からとりだして、切り開いてみたいの。いつも思うのよ、そういうのって中がどうなってるんだろうってね。ちょうど歯みがきのペーストがチューブの中で固まるみたいに、仲で何かがコチコチになってるんじゃないかしら。そう思わない?いいのよ、返事しないで。まわりがぐにゃぐにゃとしていて、それが内部に向かうほどだんだん硬くなっていくの。だから私はまず外の皮を切り開いて、中のぐにゃぐにゃしたものをとりだし、メスとへらのようなものを使ってそのぐにゃぐにゃをとりわけていくの。そうすると中にいくにしたがって、だんだんそのぐにゃぐにゃが硬くなっていってね、最後には小さな芯みたいになってるの。ボールベアリングのボールみたいに小さくて、すごく硬いのよ。そんな気しない?」
娘は二、三度小さな咳をした。
「最近いつもそのこと考えるの。きっと毎日暇なせいね。何もすることがないと考えがどんどんどんどん遠くまで行っちゃうのよ。考えが遠くまで行きすぎて、うまくあとが辿れなくなるの」

答えるもののないままに電話のベルは鳴りつづけた。ベルは暗闇の中に浮かんだちりを鈍くかきまわしていた。僕もクミコもそのあいだ一言も口をきかなかった。僕はビールを飲み、クミコは声をたてずに泣きつづけていた。僕は二十回までベルの音を数えていたが、それからあとはあきらめて鳴るにまかせた。いつまでもそんなものを数えつづけるわけにはいかないのだ。

僕にはそれらの理由を全部説明することはできた。でももちろんしなかった。「わかった。それはただの好き嫌いだ。よくわかった。でも君は結婚してからこの六年間に青いティッシュペーパーと、柄のついたトイレットペーパーをただの一度も買わなかったのか?」
「買わなかった」、クミコはきっぱりと言った。
「本当に?」
「本当によ」とクミコは言った。「私の買うティッシュペーパーの色は白か黄色かピンク、それだけ。そして私の買うトイレットペーパーはいつも絶対に無地なの。あなたがこれまで私と一緒に暮らしていてそれに気づかなかったなんて驚きだわ」
僕にとってもそれは驚きだった。この六年間のあいだ、僕は青いティッシュペーパーと柄つきのトイレットペーパーをただの一度も使わなかったのだ。

実を言うと、僕は結婚したことによって初めて、自分がこの地球という太陽系の第三惑星に住む人類の一員であることをありありと実感することになった。僕は地球の上に住み、地球は太陽のまわりを回転し、その地球のまわりを月が回転している。それは好むと好まざるとにかかわらず、永遠に(僕の生命の長さと比較すれば、永遠という言葉をここで使ってもおそらく差し支えないだろう)続くことなのだ。僕がそんな風に思うようになったのは、僕の妻がきっちりとほぼ二十九日ごとに生理を迎えていたからだった。そしてそれは月の満ち欠けと見事に呼応していた。彼女の生理は重く、それが始まる前の何日かは精神的にひどく不安定になり、しばしば非常に不機嫌になった。だからそれは僕にとっても、間接的にではあるにせよ、かなり重要なサイクルであった。僕はそれに備え、不必要なトラブルが生じないようにうまく処理していかなくてはならなかった。結婚する前には、月の満ち欠けのことなんてほとんど気にもとめなかった。たまにはふと空を見上げることもあったけれど、今の月がどういうかたちをしているかなんて、僕とはまったく関係のない問題であった。でも結婚したあとでは、僕はだいたいいつも月のかたちを頭にとめているようになった。

加納マルタは考えるように首を少しだけかしげた。「いいこともありますし、悪いこともあるでしょう。一見いいことに見える悪いこともあるかもしれませんし、一見粟類ことに見えるいいこともあるかもしれません」
「そういうのはどちらかというと、一般論のように僕には聞こえますね」と僕は言った。「もう少し具体的な情報はないのですか?」
「おっしゃるように、私の申し上げていることはたしかに一般論のように聞こえるでしょう」と加納マルタは言った。「しかし岡田様、ものごとの本質というものは、一般論でしか語れない場合がきわめて多いのです。それはご理解ください。私たちは占い師ではありませんし、予言者でもありません。私たちが語れるのはそのようなあくまで漠然としたことだけでさえあります。sかし正直に申し上げまして、そのようにしてしか私たちは前に進んでいけないのです。具体的なものごとはたしかに人目を引くでしょう。しかしそれらの大方は瑣末な現象に過ぎないのです。それらは言わば不必要な寄り道のようなものです。遠くを見ようとつとめればつとめるほど、ものごとはどんどん一般化していくのです」
僕は黙ってうなずいた。でももちろん僕には、彼女の言うことは何ひとつとして理解できなかった。

家庭、と僕は思った。その中で僕らはそれぞれに振りあてられた責務を果たしているのだ。彼女が仕事場の話をし、僕は夕食の用意をして、その話を聞く。それは僕が結婚する前に漠然と思い描いていた家庭の姿をはかなり違ったものだった。でも何はともあれ、それは僕が選んだものだった。もちろん僕は子供の頃にも自分自身の家庭を持っていた。しかしそれは自分の手で選んだものではなかった。それは先天的に、いわば否応なく与えられたものだった。でも僕は今、自分の意思で選んだ後天的な世界の中にいた。僕の家庭だ。それはもちろん完璧な家庭とは言いがたかった。しかしたとえどんな問題があるにせよ、僕は基本的にはその僕の家庭を進んで受け入れようとしていた。それが結局のところ僕自身が選択したものだったし、もしそこに何かしらの問題が存在するなら、それは僕自身が本質的に内包している問題そのものであるはずだと考えていた。

僕には、僕自身の存在と他人の存在とを、まったく別の領域に属するものとして区別しておける能力がある(これは能力と言ってさしつかえないと思う。何故ならそれは、自慢するわけではないが、決して簡単な作業ではないからだ)。つまり僕は、何かで不愉快になったり苛立ったりしたときには、その対象をひとまず僕個人とは関係のないどこか別の区域に移動させてしまう。そしてこう思う。よろしい、僕は今不愉快になったり苛立ったりしている。でもその原因は、もうここにはない領域に入れてしまった。だからそれについてはあとでゆっくりと検証し、処理することにしようじゃないか、と。そうして一時的に自分の感情を凍結してしまうわけだ。とになって、その凍結を解いてゆっくりと検証を行ってみて、まだたしかに感情がかき乱されるということもある。しかしそのようなことはむしろ例外に近い。しかるべき時間の経過によって、大抵のものごとは毒気を抜かれて無害なものになりはてている。そして僕は遅かれ早かれそのことを忘れてしまう。
これまでの人生の過程において、そのような感情処理システムを適用することによって、僕は数多くの無用なトラブルを回避し、僕自身の世界を比較的安定した状態に保っておくことを可能にしてきた。そして自分がそのような有効なシステムを保持していることを、少なからず誇りに思ってきた。

僕がその場面をよく覚えているのは、そこに強烈なリアリティーが含まれているように感じたからだ。不安で食事が喉を通らなくなるよりは、逆に異常なくらい食欲が湧いてきた方が文学的にリアルであるような気がしたのだ。

「家に帰ったらすぐにシャワーを浴びるのよ。まず最初にシャワー。わかった?そして綺麗な服に着替えるのよ。それから髭も剃りなさいね」
「髭?」と僕は言った。そして手で自分の顎を撫でてみた。たしかに僕は髭を剃り忘れていた。髭を剃るなんていうことを、朝から一度も思いつきもしなかったのだ。
「そういう細かいもとがわりに大事なのよ、ねじまき鳥さん」と笠原メイは僕の目を覗き込むように見ながら言った。「家に帰ってじっくり鏡を見なさい」

「暗闇の中でひとりでじっとしているとね、私の中にある何かが私の中で膨らんでいくのがわかったわ。鉢植えの中の樹木の根がどんどん成長していって、最後にその鉢を割ってしまうみたいに、その何かが私のからだの中でどこまでも大きくなって最後には私そのものをばりばりと破っちゃうんじゃないかっていうような感じがしたのよ。太陽の下では私のからだの中にちゃんと収まっていたものが、その暗闇の中では特別な養分を吸い込んだみたいに、おそろしい速さで成長しはじめるのよ。私はそれを何とか抑えようとしたわ。でも抑えることができなかった。そして私はどうしようもなく怖くなったの。そんなに怖くなったのは生まれて初めてのことだった。私という人間は私の中にあったあの白いぐしゃぐしゃとした脂肪のかたまりみたいなものに乗っ取られていこうとしているのよ。それは私を貪ろうとしているの。ねじまき鳥さん、そのぐしゃぐしゃは最初は本当に小さなものだったのよ」
しばらく口をつぐんで、笠原メイはそのときのことを思いだすように自分の手を見ていた。
「本当に怖かったのよ」と彼女は言った。「きっと私はあなたにもそういうのを感じてほしかったのね。それがあなたの体をぼりぼりと齧っていく音を聞いてほしかったのね」

僕は時間つぶしに、彼女に向けて手紙を書いた。といっても相手の住所もわからないし、名前だってない。だからもともと出すつもりのない手紙だった。僕はただ誰かに向けて手紙を書いてみたかったのだ。

もう二度とあなたと会うことはないだろうとクミコは僕に言った。どうしてかはわからないけれど、クミコは唐突にきっぱりと僕のもとを去っていった。でも彼女は決して僕を捨てたわけではなかった。それどころか彼女は本当は僕を切実に必要とし、激しく求めていた。ただ何かの理由でそれを口に出すことはできなかった。だからこそいろいろな方法で、さまざまに形を変えて、必死に何か大きな秘密のようなものを僕に伝えようとしていたのだ。
そう思うと、僕の胸は熱くなった。それまで僕の胸の中で凍りついていたいくつかのものが、突き崩され、溶けていくのが感じられた。様々な記憶や思いや感触がひとつになって押し寄せ、僕の中にあった感情のかたまりのようなものを押し流した。溶けて押し流されたものは、静かに水と混じりあい、僕の身体を闇の中で淡い膜でやさしく包んだ。それはそこにあるのだ、と僕は思った。それはそこにあって、僕の手が差しのべられるのを待っている。どれだけの時間がかかることになるのかはわからない。どれだけの力が必要とされるのかもわからない。でも僕は踏みとどまらなくてはならない。そしてその世界に向けて手を伸ばすための手だてをみつけなくてはならない。それが僕のやるべきことなのだ。待つべきときには待たねばならん、それが本田さんの言ったことだった。

僕はプールサイドの壁にもたれて座り、静かに目を閉じた。僕の中には、その幻滅のもたらした幸せな感触が、まだ日溜まりのように残っていた。そして僕はその日溜まりの中で思った。それはそこにあるのだ、と。何もかもが僕の手からこぼれ落ちていったわけではない。何もかもが闇の中に追いやられてしまったわけではないのだ。そこにはまだ何かが、何か温かく美しく貴重なものがちゃんと残されているのだ。それはそこにあるのだ。僕にはわかる。
あるいは僕は負けるかもしれない。僕は失われてしまうかもしれない。どこにもたどり着けないかもしれない。どれだけ死力を尽くしたところで、既にすべては取り返しがつかないまで損なわれてしまったあとかもしれない。僕はただ廃墟の灰を虚しくすくっているだけで、それに気がついていないのは僕ひとりかもしれない。僕の側に賭ける人間はこのあたりには誰もいないかもしれない。「かまわない」と僕は小さな、きっぱりとした声でそこにいる誰かに向かって言った。「これだけは言える。少なくとも僕には待つべきものがあり、探し求めるべきものがある」
それから僕は息を殺し、じっと耳を澄ませる。そしてそこにあるはずの小さな声を聞き取ろうとする。水しぶきと、音楽と、人々の笑い声の向こうに、僕の耳はその音のない微かな響きを聞く。そこでは誰かが誰かを呼んでいる。誰かが誰かを求めている。声にならない声で、言葉にならない言葉で。

名刺には住所だけが真黒な活字で印刷されていた。住所は港区赤坂、番地とビルの名前と部屋番号。名前はない。電話番号もない。念のためにひっくり返してみたが、裏側は白紙だった。僕は名刺を鼻先に近づけてみた。でも匂いはない。それはありきたりの白い紙に過ぎなかった。
僕は女の顔を見た。「名前はないんですね?」
女は初めて微笑んだ。それから静かに首を振った。「だってあなたに必要なのはお金でしょう。お金には名前なんてあるかしら?」
僕も同じように首を振った。もちろん金には名前はない。もし金に名前があったなら、それは既に金ではない。金というものを真に意味づけるのは、その暗い夜のような無名性であり、息をのむばかりに圧倒的な互換性なのだ。

彼女は説明というものを一切しなかった。僕もとくに説明を求めず、言われるままに従った。それは僕が学生の頃に見たいくつかの「芸術映画」のシーンを思いださせた。そのような映画の中では状況説明はリアリティーを損なう害悪として捉えられ、一貫して排斥されていた。それはひとつの考え方であり、ものの見方であるかもしれない。でも自分が生身の人間として実際にそういう世界に入っていくのは、かなり奇妙なことだった。

それとも世の中には何種類かの人間がいて、ある人にとっては人生や世界は茶碗むし的に一貫したものであって、またべつの人にとってはそれはマカロニ・グラタン的に行きあたりばったりのものなのでしょうか。私にはよくわからない。でも私は想像するのだけれど、私の雨蛙みたいな両親は、もし「茶碗むしのもと」を入れてチンしてマカロニ・グラタンが出てきたとしても、たぶん「自分はきっとまちがえてマカロニ・グラタンのもとを入れたんだな」と自分に言いきかせたりするんじゃないかな。あるいはマカロニ・グラタンを手に取って、「いやいや、これは一見マカロニ・グラタンに見えるけれど実は茶碗むしだ」と一生けんめい言いきかせたりするかもしれない。そしてそういう人は私がもし「茶碗むしのもとを入れてチンして、それがマカロニ・グラタンに変わることもたまにはあるのよね」と親切に説明してあげてもぜったいに信じないだろうし、逆にかんかんに怒ったりもするんだと思う。