エーリッヒ・ケストナー『飛ぶ教室』

おとなというものは、どうしてこうも、けろりと、自分の子どものをわすれて、子どもだって、ときにはずいぶん悲しく、不幸なことだってあるのだということを、まるでわからなくなってしまうのでしょう(この機会に、わたしはみなさんに心からおねがいします。みなさんの子どものころをけっしてわすれないで、と。約束してくれますか。誓って?)。
というのは、人形がこわれたといって泣くか、あるひはもっと大きくなってから、友だちをなくしたといって泣くか、それはどっちでもいいのです。べつにかわりはありません。この世の中では、なにを悲しむかということは、すこしも問題ではなく、どれほどふかく悲しむか、ということだけが問題なのです。子どものなみだは――これは誓っていいますがーーおとなのなみだより小さいというものではありません。おとなのなみだより小さいというものではありません。おとなのなみだより重いことだって、いくらもあるのです。思いちがいをしないでくださいよ、みなさん。わたしたちは、なにも不必要に、なみだもろくなろうというのではありません。わたしがいうのは、ただ、人間はどんなにつらく悲しいときでも、正直でいなければいけないということです。骨のずいまで正直でなければいけない、ということなのです。

〈どの屋根の下にも、人間がくらしている。一つの町には、なんとたくあんの屋根があることだろう。そしてわれわれの国には、なんとたくさんの町があるのだろう。またわれわれの住む遊星には、なんとたくさんの国があることか。そしてこの世界には、なんとたくさんの星がるのだろう。幸福は、数かぎりない人々にわかちあたえられている。不幸だってそうだ……ぼくは大きくなったら、きっと田舎に住もう。大きな庭のある、小さい家にだ。そして五人の子どもを持とう。でも、ぼくは、その子どもをすてるために、海のむこうにやるようなことはしない。ぼくは、ぼくのお父さんがぼくにたいしてしたような、いじわるなことはしない。
それから、ぼくの奥さんになる人は、ぼくのお母さんよりいい人だろう。ああ、いまごろどこにいるのだろう、ぼくのお母さんは?お母さんはまだ生きているのかしら。
たぶん、マルチンがぼくの家にこしてくるだろう。彼は絵をかくだろう。そしてぼくは本を書くのだ。これで人生がたのしくなかったら、それこそおかしい〉