ニーチェ『善悪の彼岸』

真理が女である、と仮定すれば――、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用なあつかましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが篭絡されなかったのは確かなことだ。

ドイツ人は火薬を発明した。――まことに注目に値することだ!しかし彼らはそれを帳消しにしてしまった――彼らは新聞を発明したのだ。

彼らは総じて、自分たちの本来の意見を冷静で、純粋で、神々しく超然たる弁証法の自己展開によって発見し、また獲得したかのような振りをする(これとは違って、どのような等級の神秘家たちもあの手合いよりは立派であり、しかも無骨であって、――「霊感」ということを口にする――)。ところが、本当は或る先取的な命題、或る思いつき、或る「徠想」、大概は抽象化され篩にかけられた彼らの心願が、後から求められた理由によって弁護されるのだ。

おお、諸君、高貴なストア派の人々よ、諸君は「自然に従って」生きようと欲するのであるか。それは何という言葉の欺瞞であろう!自然というものの本性を考えてみたまえ。節度もなく浪費し、限度もなく無頓着で、意図もなければ顧慮もなく、憐情もなければ正義もなく、豊饒で、不毛で、かつ同時に不確かなものだ。諸君はその無関心そのものが力としてであることを考えてみるがよい。――諸君はこの無関心に従って生きることがどうしてできようか。生きること、それはまさしくこの自然とは別様に存在しようと欲することではないのか。生きるとは評価すること、選び取ること、不正であり、制限されてあり、差別的(関心的)であろうと欲することではないのか。そして、「自然に従って生きる」という諸君の命法が根本において「生に従って生きる」というのと同じほどの意味であるとしたら、――諸君はいたちどうしてそうでなくありうるというのか。

生理学者たちは、自己保存の衝動を有機体の根本衝動として設定することについて熟慮すべきであろう。なかんずく、生物はその力を放出しようと欲する。――生そのものが力への意志なのである、――自己保存は単にそれの間接的で最も頻繁な帰結の一つにすぎない。――要するに、どこでもここでも、余計な目的論的諸原理が持ち込まれないように用心すべきだ!――自己保存の衝動の如きもそういたものである(この衝動はスピノーザの不徹底から来たものであるが――)。だからつまり、方法は、本質的に原理の節約を旨としなければならないことを命じるわけになる。

――われわれはまっしぐらに道徳を乗り越えて行こう。われわれがそこへ船路を深め、危難を冒すその間に、恐らくわれわれ自身の道徳の残滓を搗き砕くであろう。――だが、それがわれわれにとって何であろう!いまだかつて大胆な旅行者や冒険家にとってこれ以上に深い洞察の世界が開かれたことはなかった。そして、このように「犠牲を捧げる」心理学者は――これは《知性の犠牲》ではない、その反対だ!――少なくともその代わりに、心理学が再び諸学の女王と認められるようになることを、爾余の学問はそれに奉仕し準備するために現存することを要求してよいであろう。心理学はいまや再び根本問題に至る道となるのだからだ。

おお、《聖なる単純》よ!何という稀有な単純化と偽造のうちに人間は生きていることか!ひとたびこの不思議に眼を向けた者なら、ついに驚嘆して措く能わざるものがあろう!何とわれわれは身の周りの一切を明朗に、自由に、軽快に、単純に作り上げたことか!何とわれわれは自分たちの官能にあらゆる皮相的なものに対するフリー・パスを与え、自分たちの思惟に気まぐれな飛躍と詭論への神々しい貪欲を与えてしまったことか!――何とわれわれは始めからわれわれの無知を保持するすべを心得ていたことか、しかも殆ど不可解なまでの自由・無思慮・不用心・大胆さ・生の明朗さを、要するに生を享しまんがためにだ!そして、無知というこのいまこそ堅固になった花崗岩のような基盤の上に始めてこれまで学問は興隆し、遥かに一層暴力的な意志の、無知や無学や虚偽への意志の基盤の上に始めて知への意志は興起しえたのだ!その反対としてではなく、むしろその洗練としてだ!すなわち、言葉が他の場合と同じく、その拙劣さを脱却しえず、ただ程度や様々な微妙な段階があるところでも対立ということを云々することを続けているにしてもだ。同様に、いまやわれわれの打ち克ちがたい「肉と血」となった道徳の化身である偽善がわれわれ消息通の口にする言葉をさえ捩じ曲げているにしてもだ。時折、われわれはそれを看破して、こう笑わずにはいられない。何とまあ最上の学問までがわれわれを御親切極まりなくもこの単純化された、全く技巧的な、うまく捏造され、然るべく偽造された世界に拘留しようとしていることか!何とまあこの学問は心ならずも好んで誤謬を愛することか!というのは、それは生あるものであって、――生を愛するからだ!

このように喜ばしい序言の後で、真面目な言葉を聞き過ごすことのないようにしていただきたい。もっとも、極めて真面目な人々に向かって言うのだが。諸君、哲学者にして認識の友らよ、殉教者とならないように用心したまえ!「真理のために」受難しないように気をつけたまえ!おのれの弁護をすることをさえも戒めたまえ!それは諸君の良心のあらゆる無垢と純な中立を傷つける。それは異論に対して猪突させ、赤い布に対して猛進させる。それは、諸君が危険・誹謗・嫌疑・排斥およびその他なお無礼な敵意の結果と戦い、結局は諸君が真理の弁護者としても役割をすら地上で演じなければならないときに、諸君を愚昧にし、獣的にし、牡牛にする。――あたかも「真理」が弁護者を必要とするほどお人好しで鈍物であるかのようにだ!

独立であるということは、極めて少数の者にしかできない事柄である。――それは強者の一つの特権なのだ。そして、そうするに極めて十分な資格があるにしても、そうしなければならないわけでもないのに、独立であろうと試みる者は、それによって彼が恐らく強いばかりでなく、むしろ放縦なまでに果敢であることを証拠立てる。彼は迷宮に入り込んで行く。彼は生そのものがすでに伴っている危険を千倍にもする。彼がどのように、またどこで道に迷い、孤独に陥り、良心という洞窟のミノータウロスが何かによって切れ切れに引き裂されるのを誰も目撃しないということは、決してそうした危険のうちの最小のものではない。このような者が破滅するとしたら、それは人々の理解の及ばないほど遠いところで起こることであって、彼らはそれを感じもせず、それに共感することもない。――そして、その者はもはや帰って来ることができないのだ!彼がもはや帰りえないことを人々が同情しようとも!――――

われわれは名誉や、金銭や、官職や、官能の陶酔のうちに潜んでいる依属の好餌に対しては満腔の憎悪を抱いている。困窮と変り易い病状に対しては感謝の念をすらもっている。これらはわれわれを常に何らかの規則とその「先入見」から解放してくれたからだ。また、われわれのうちにある神・悪魔・羊・蛆虫に感謝する。悪徳に至るまで好奇心に充ち、残忍に至るまで探求者であり、捉えがたいものに対する躊躇することのない指をもち、消化しがたいものに対する歯と胃をもち、明敏と鋭い感覚を必要とするあらゆる手職を具え、「自由意志」の過剰によってあらゆる冒険に立ち向かう用意があり、何人も容易に窮極の意図と見抜きえない前向きの魂と後向きの魂とをもち、何人も足をその終端まで踏み出すことを敢えてしない前景と背景とをもち、光のマントを纏った隠遁者であり、遺産相続者で浪費者であるかの如く見えながら征服者であり、朝から晩まで休むことのない整頓者で蒐集者であり、われわれの富とわれわれの一杯に詰め込まれた箪笥をもつ吝嗇家であり、学んだり忘れたりすることにかけては家計上手であり、図式を案出することが巧みであり、時には範疇表を作って誇り、時には衒学者で、時には白昼でも仕事のためには夜の梟である。それどころか、必要とあれば、案山子でさえもある。――そして、今日ではそれが必要なのだ。すなわち、われわれが孤独の、われわれ自身の最も深い真夜中の、真昼の孤独の、生まれながらの嫉妬深い刎頚の友であるかぎりそうなのだ。――われわれはこのような種類の人間である。われら自由な精神はだ!そして、恐らく諸君もまた何ほどかはそうなのではなかろうか、諸君、来るべき者は?諸君、新しい哲学者たちは?――

これまで地上において宗教的神経症が現われたところでは、どこでもそれが三つの危険な摂生法と結びついているのが見いだされる。すなわち、孤独と断食と性的禁欲とがそれだ。

これまでは最も力強い人間たちが常になお聖者の前に、自己抑制と意図的な窮極の欠乏の謎として恭しく身を屈めて来た。何故に彼らは身を屈めたのであるか。彼らは聖者のうちに――そしていわば彼の虚弱で悲嘆にくれた外見の疑問符の背後に――そのような抑制によって自らを試練しようとする卓越した力、意志の強さを予感した。そしてこの意志の強さのうちに、彼らは自分自らの強さと支配者的な悦びとを再認識して、これを崇敬することを知ったのである。彼らは聖者を崇めたときに、自分たち自らにおける何ものかを崇めたわけであった。それに加えて、聖者の姿を眺めることは彼らに或る猜疑心を吹き込んだ。こんんあい法外な否定と反自然が徒らに熱望されるはずがない、と彼らは自分に言い、かつ訊ねた。それには恐らく何か理由が、何か全く大きな危険があって、この危険について禁欲者は、彼の秘密の勧告車や訪問者たちのおかげで、詳しい消息を知っているのではなかろうか。とにかく、この世の有力者たちは、聖者に対して一つの新しい恐怖を抱くようになった。彼らは一つの新しい力、一つのまだ制圧されない見知らぬ敵を予感したのだ。――彼等を聖者の前に佇ち止まらせた当のものは「力への意志」であった。彼等はそれを問わざるを得なかったのだ――

宗教的残忍という大きな梯子があり、それには多くの横木がある。しかしのうちの三つが最も重要なものである。かつては神のために人間が犠牲に捧げられた。それも恐らく、まさに最も愛せられた人間が捧げられたのだ。――すべての原始時代の宗教における初子犠牲がそれであるし、ティペリウス帝がカプリ島のミトラの洞窟に捧げた犠牲、すべてのローマの時代錯誤のうちでもあの最も凄い犠牲もそれに属する。やがて、人間の道徳的時期になると、神のために自分の所有する最も強い本能、すなわち自分の「自然」を犠牲に供した。この祝祭の喜びは、禁欲者の、感激した「自然反逆者」の残忍な眼差しのうちに輝いている。最後に、なお犠牲に供すべき何が残ったか。ついに、隠された調和のために、未来の至福と正義のために、すべての慰めるもの・聖なるもの・癒やすもの・すべての希望、すべての信仰が犠牲に供されなければならなくなったのではないか。神そのものを犠牲に供し、かつ、自己に対する残忍から、石・痴愚・重圧・運命・虚無を祈念しなければならなくなったのではないか。虚無のために神を犠牲に捧げる――この究極的な残忍の逆説的な秘儀こそは、いまやまさに現われようとする世代のために納っておかれたものであった。

労るような仕方で――殺す手を見たこともないような者は、人生を素朴に眺めて来た者だ。

本能。――家が燃えるとき、昼食をさえ忘れる。――そうだ、しかし灰の上で遅れ馳せに食べ直す。

愛から為されることは、常に善悪の彼岸に起こる。

自殺を想うことは強い慰藉剤である。これによって数々の悪夜が楽に過ごされる。

自分の認識を伝達するやいなや、人々はその認識をもはや余り愛さなくなる。

しかし真の哲学者は命令者であり、かつ立法者である。彼らは「かくあるべし」と言う。彼らは始めて人間のどこへ?と何のために?とを規定し、その際にすべての哲学的労働者、すべての過去の圧服者の準備作業を意のままに利用する。――彼らは創造的な手をもって未来を掴み、そして存在するものと存在したもののすべてがその際に彼らにとって手段となり、道具となり、ハンマーとなる。彼らの「認識」は創造であり、彼らの創造は一つの立法であり、彼らの真理への意志は――力への意志である。――今日そういう哲学者たちが存在するだろうか。すでにそういう哲学者たちが存在したろうか。そういう哲学者たちが存在しなければならないであろうか。

あのソークラテースの悪意ある自信は、老医や賤民のように容赦なく自分の肉にも「貴族たち」の肉や心にと同じく切り入ったが、その眼差しは全く明らかに、「おれの前で佯るのはやめろ!ここでは――われわれは平等なのだ!」と語っていた。今日では逆に、ヨーロッパではひとり畜群のみが名誉にありつき、名誉の分け前に与っており、「権利の平等」は余りにも容易に「無権利の平等」に変化しうるので、すべての稀有なもの、異他的なもの、特権的なもの、より高い人間、より高い魂、より高い義務、より高い責任、創造的な力の充実と支配者的な権力を共同に攻め取るために、私はこう言いたい。――今日では、高貴であること、独立自存であろうと欲すること、他者でありうること、孤立し、自己の拳で生きなければならないことが「偉大」という概念に属する、と。そして、哲学者は次のように提言するとき、彼自身の理想の一端を洩らすことになろう。「最も孤独な者、最も隠れた者、最も脱俗的なもの、善悪の彼岸にあって自分の徳の主人であり、有り余る意志をもつ者こそ、最も偉大な者であるべきである。同様に、複雑であるとともに全体的であり、また広大であるとともに完全でありうること、これこそまさに偉大と呼ばるべきである。」そこで、もう一度問わなければならない。今日――偉大ということは可能であるか、と。

自分たちに道徳的分別や繊細な道徳的判断力があると信じられることに高い価値を置くような人々には用心するがよい。彼らは、一旦われわれの前で(あるいは、われわれについて)失策をしたとなると、決してわれわれを赦してはくれない。――彼らはなお依然としてわれわれの「友人」である場合ですら、われわれの本能的な誹謗者となり毀傷者となることは避けがたい。――忘れっぽい人々は幸いである。彼らは自分の愚行をも「綺麗さっぱり」忘れてしまうからだ。

女について尊敬の念を起こさせ、また実にしばしば恐怖を起こさせるものは、その自然であり、これは男のそれよりも「より自然的」である。その真に猛獣のような狡猾な柔軟さ、その手袋で匿した虎の爪、その素朴な利己主義、その教化しがたさと内心の野性、その情欲と徳性との捉えがたさ・広さ・尾の長さなどがそうだ…・・・このように恐怖を起こさせるものに充ちているに拘わらず、この危険で美しい猫である「女」に同情を感じさせるものは、それがいかなる動物よりも苦しんでおり、傷つき易く、愛に飢え、幻滅すべく宣告されているように見えるからだ。恐怖と同情、この感情を抱いてこれまで男は女の前に立った。そしていつも狂喜させると同時に心を引き裂く悲劇のうちにすでに片足を踏み入れていた。――どうだって、それがもう終わりになったというのか。そして女の魅力の喪失が起こっているというのか。女の退屈化が徐々にやって来るというのか。おお、ヨーロッパよ!ヨーロッパよ!お前にとって常に最も魅惑的であったし、お前を幾度となく危険で脅かしたあの角のある動物を人々は知っているのだ!――お前の古い寓話がもう一度「歴史」になるかもしれない。――もう一度、巨怪な愚昧がお前を支配し、お前を拉し去るかもしれないのだ!そして、その愚昧のもとにはいかなる神も隠れてはいない。いな!隠れているのは、ただ一つの「理念」、一つの「近代的理念」だけだ!――

彼らは悉く「いかなる犠牲をも意としない」表現の狂信者であった。――私はヴァーグナーの最も親近者であるドラクロアを挙げる――。彼らは悉く崇高なもの、また醜悪なものや凄惨なものの領域における偉大な発見者でもあり、更に効果における、展示における、飾り窓の技術における一層偉大な発見者でもあった。彼らは悉く彼らの天才を遠く越え出た才能の持ち主であった――。

愛は一切をなしうる、と女は信じたがる。――それは女の本来の迷信である。ああ、心情の本質を知る者は、最上で至深の愛でさえもいかに貧しく、頼りなく、自惚れで、不手際で、救うよりもむしろ毀すものであることを察知するのだ!

二人の人間を最も深く引き離すもの、それは純潔に対する感覚と程度の差異である。どんなに健気でに、また互いによく益し合ったところで何になろう。どんなに互いに好意をもち合ったところで何になろう。そんなことをしたところで、結局は――「お互いに鼻もちもならない!」ということになるのだ。純潔という最高の本能は、これに取り憑かれた者を一個の聖者として、最も奇異な、かつ最も危険な孤独化のうちに置くのである。――これが上に言う純潔の本能の最高の精神化である。沐浴の幸福における名状しがたい充実を共に知ることとか、魂と絶えず夜から朝へ、暗鬱や「憂愁」から明るみや輝きや深みや優雅さへ駆り立てる情熱や渇望といったようなもの、こうした傾向――それは高貴な傾向であるが――は際立たせると同様に、――また引き離しもする。聖者の同情とは、人間的なもの、余りに人間的なものの汚穢に対する同情である。そして、この同情さえも彼によって汚染として、汚穢として感じられるような度合いや高みがあるのだ……