ドストエフスキー『いまわしい話』『鰐』
『いまわしい話』
彼はもう星(勲章)を二つも持っていたけれど、天から星をつかみとるような大それたことは嫌いだったし、何事であれ、自分の意見を吐くことは、特に好まなかった。彼は誠実でもあった、というのはつまり、何か特に不誠実なことをしでかさねばならぬような事態にぶつからなかったということだが。独り者だったが、これはエゴイストのせいだった。頭もかなりいいほうだったが、それをひけらかしたい気持ちを抑えることができなかった。特にだらしなさを好まなかったい、有頂天になることも、精神的なだらしなさと考えていたので、好まなかった。そして人生の終り近くには、ある種の甘い怠惰な安逸と、整然とした独り住まいに、すっかり埋没してしまった。
実際に、彼の立場はますますエキセントリックになってきた。のみならず、これはある種の嘲笑であった。小一時間ほどの間に彼の身に神のみが知る何事かが起ったのである。彼が入っていったときは、彼は、言ってみれば、全人類に、自分のすべての部下たちに、抱擁の手を差しのべたつもりだったが、まだ一時間もたたぬうちに、かれは、自分がプセルドニーモフを憎悪し、彼と、彼の妻と、彼の結婚式を呪っていることえお感知して、はげしい心の痛みをおぼえたのだった。のみならず、彼は、プセルドニーモフの顔から、その目からだけでも、相手も彼を憎み、『失せやがれ、畜生!うるさくつきまとわりやがって!……』と言わんばかりに、にらみつけているのを見てとった。こうしたことはもうまえまえから相手の目の中に読んでいたのだった。
もちろん、イワン・イリイチは、食卓についたいまでさえも、これはみな実際にそのとおりなのだと、公然とはおろか、ひそかに自分だけでも、本気で告白するくらいなら、むしろ片腕を切り落とされたほうがましだと思っていた。その機がまだ完全には熟していなかったし、まだ精神的なバランスのようなものがあった。だが、心、心、心……心がずきずき疼いていた!心が自由を、空気を、休息を求めていた。たしかにイワン・イリイチは人間があまりに善良すぎた。
『鰐』
「家内は僕と釣り合う存在になってくれなければいけない――僕には知力があり、家内には美貌と愛想があるからね、『彼女は美人だ、だからこそあの人の奥さんなのだ』と、ある者が言えば、『彼女は美人だ、だってあの人の奥さんだからね』と他の者が訂正する」
そこは大変な雑踏であることが予想されたので、わたしは何かいささか恥ずかしかったため、万一の用心に外套の襟になるべくしっかりと顔を埋めた――われわれはそれほどまで公開ということに慣れていないのだ。しかし、これほど注目すべき特異な事件であることを考えると、わたしは自分自身の散文的な感覚なぞ伝える権利がないように感ずるのである。