夏目漱石『行人』

宅では食卓の上に刺身だの吸物だのが綺麗に並んで二人を待っていた。お兼さんは薄化粧をして二人のお酌をした。時々は団扇を持って自分を扇いでくれた。自分はその風が横顔に当るたびに、お兼さんの白粉の匂をかすかに感じた。そうしてそれが麦酒や山葵の香よりも人間らしい好い匂のように思われた。

「他(ひと)の心は外から研究はできる。けれどもその心に為ってみることはできない。そのくらいのことなら己だって心得ているつもりだ」
兄は吐き出すように、また懶(ものう)そうにこう言った。自分はすぐその後に跟(つ)いた。
「それを超越するのが宗教なんじゃありますまいか。僕なんぞは馬鹿だから仕方がないが、兄さんはなんでもよく考える性質だから……」
「考えるだけで誰が宗教心に近づける。宗教は考えるものじゃない、信じるものだ」
兄はさも忌々しそうにこう言い放った。そうしておいて、「ああ己はどうしても信じられない。どうしても信じられない。ただ考えて、考えて、考えるだけだ。二郎、どうか己を信じられるよう様にしてくれ」と言った。
兄の言葉は立派な教育を受けた人の言葉であった。しかし彼の態度はほとんど十八九の子供に近かった。自分はかかる兄を自分の前に見るのが悲しかった。その時の彼はほとんど砂の中で狂う泥鰌のようであった。

彼女は蒼白い頬へ少し血を寄せた。その量が乏しいせいか、頬の奥の方に灯を点けたのが遠くから皮膚をほてらしているようであった。しかし自分はその意味を深くも考えなかった。

「己れはこう解釈する。人間の作った夫婦という関係よりも、自然が醸した恋愛のほうが、実際神聖だから、それで時を経るにしたがって、狭い社会の作った窮屈な道徳を脱ぎ棄てて、大きな自然の法則を嘆美する声だけが、我々の耳を刺激するように残るのではなかろうか。もっともその当時はみんな道徳に加勢する。二人のような関係を不義だといって咎める。しかしそれはその事情の起った瞬間を治めるための道義に騒られたいわば通り雨のようなもので、あとへ残るのはどうしても青天と白日、すなわちパオロとフランチェスカさ。どうだそうは思わんかね」

「二郎、だから道徳に加勢するものは一時の勝利者には違いないが、永久の敗北者だ。自然に従うものは、一時の敗北者だけれども永久の勝利者だ……」
自分はなんとも言わなかった。
「ところが己は一時の勝利者にさえなれない。永久にはむろん敗北者だ」

陰刻な冬が彼岸の風に吹き払われた時自分は寒い窖から顔を出した人のように明るい世界を眺めた。自分の心のどこかにはこの明るい世界もまた今遣り過ごした冬と同様に平凡だという感じがあった。けれども呼息をするたびに春の匂が脈の中に流れ込む快さを忘れるほど自分は老いていなかった。

彼女の言葉はすべて影のように暗かった。それでいて、稲妻のように簡潔な閃を自分の胸に投げ込んだ。自分はこの影と稲妻とを綴り合せて、もしや兄がこのあいだじゅう癇癖の嵩じたあげく、嫂に対して今までにない手荒なことでもしたのではなかろうかと考えた。打擲という字は折檻とか虐待とかいう字と並べてみると、忌まわしい残酷な響を持っている。嫂は今の女だから兄の行為をまったくこの意味に解しているかもしれない。自分が彼女に兄の健康状態を聞いた時、彼女は人間だからいつどんな病気に罹るかもしれないと冷かに言ってのけた。自分が兄の精神作用に掛念があってこの問を出したのは彼女にも通じているはずである。したがって平生よりもなお冷淡な彼女の答は、美しい己れの肉に加えられた鞭の音を、夫の未来に反響させる復讐の声とも取れた。――自分は怖かった。

「人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まることを知らない科学は、かつて我々に止まることを許してくれたことがない。徒歩から俥、俥から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、それから航空船、それから飛行機と、どこまで行っても休ませてくれない。どこまで伴れていかれるか分らない。実に恐ろしい」
「そりゃ恐ろしい」と私も言いました。
兄さんは笑いました。
「君の恐ろしいというのは、恐ろしいという言葉を使っても差し支えないという意味だろう。実際恐ろしいんじゃないだろう。つまり頭の恐ろしさにすぎないんだろう。僕のは違う。僕のは心臓の恐ろしさだ。脈を打つ活きた恐ろしさだ」

「こうして髭を生やしたり、洋服を着たり、シガーを銜えたりするところを上部から見ると
、いかにも一人前の紳士らしいが、実際僕の心は宿なしの乞食見たように朝から晩までうろうろしている。二六時中不安に追い懸けられている。情ないほど落付けない。しまいには世の中で自分ほど修養のできていない気の毒な人間はあるまいと思う。そういう時に、電車の中やなにかで、ふと目を上げて向う側を見ると、いかにも苦のなさそうな顔に出っ食わすことがある。自分の目が、ひとたびその邪念の萌さないぽかんとした顔に注ぐ瞬間に、僕はしみじみ嬉しいというか刺激を総身に受ける。僕の心は旱魃に枯れかかった稲の穂が膏雨を得たように蘇える。同時にその顔――何も考えていない。まったく落付払ったその顔が、たいへん気高く見える。目が下っていても、鼻が低くっても、雑作はどうあろうとも、非常に気高く見える。僕はほとんど宗教心に近い敬虔の念をもって、その顔の前に跪ずいて感謝の
意を表したくなる。自然に対する僕の態度もまったく同じことだ。昔のようにただうつくしいから玩ぶという心持は、今の僕には起る余裕がない」
兄さんはその時電車のなかで偶然見当る尊い顔の部類のうちへ、私を加えました。私は思いも寄らんことだと言って辞退しました。すると兄さんは真面目な態度でこう言いました。
「君でも一日のうちに、損も得も要らない、善も悪も考えない、ただ天然のままの心を天然のまま顔に出していることが、一度や二度はあるだろう。僕の尊いというのは、その時の君のことを言うんだ。その時に限るのだ」

「僕は死んだ神より生きた人間のほうが好きだ」
兄さんはこう言うのです。そうして苦しそうに呼息をはずませていました。私は兄さんを連れて、またそろそろ宿の方へ引き返しました。
「車夫でも、立ん坊でも、泥棒でも、僕が難有いと思う刹那の顔、すなわち神じゃないか。山でも川でも海でも、僕が崇高だと感ずる瞬間の自然、取りも直さず神じゃないか。そのほかにどんな神がある」

「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」
兄さんははたしてこう言いだしました。その時兄さんの顔は、むしろ絶望の谷に赴く人のように見えました。
「しかし宗教にはどうもはいれそうもない。死ぬのも未練に食い留められそうだ。なればまあ気違だ。しかし未来の僕はさて置いて、現在の僕は君正気なんだろうかな。もうすでにかなっているんじゃないかしら。僕は怖くて堪まらない」

「君は山を呼び寄せる男だ。呼び寄せて来ないと怒る男だ。地団太を踏んで口惜しがる男だ。そうして山を悪く批判することだけを考える男だ。なぜ山の方へ歩いてゆかない」
「もし向うがこっちへ来るべき義務があったらどうだ」と兄さんが言います。
「向うに義務があろうとあるまいと、こっちに必要があればこっちで行くだけのことだ」と私が答えます。
「義務のないところに必要のあるはずがない」と兄さんが主張します。
「じゃ幸福のために行くさ。必要のために行きたくないなら」と私がまた答えます。
兄さんはこれで黙りました。私のいう意味はよく兄さんに解っているのです。けれども是非、善悪、美醜の区別において、自分の今日までに養い上げた高い標準を、生活の中心としなければ生きていられない兄さんは、さらりとそれを擲って、幸福を求める気になれないのです。むしろそれに振ら下がりながら、幸福を得ようと焦躁るのです。そうしてその矛盾も兄さんにはよく呑み込めているのです。
「自分を生活の心棒と思わないで、綺麗に投げ出したら、もっと楽になれるよ」と私がまた兄さんに言いました。
「じゃなにを心棒にして生きて行くんだ」と兄さんが聞きました。
「神さ」と私が答えました。
「神とはなんだ」と兄さんがまた聞きました。

我々が濡れ鼠のようになって宿へ帰ったのは、出てから一時間目でしたろうか、また二時間目に懸りましたろうか。私は臍の底まで冷えました。兄さんは唇の色まを変えていました。湯にはいって暖まった時、兄さんはしきりに「痛快だ」と言いました。しぜんに敵意がないから、いくら征服されても痛快なんでしょう。私はただ「御苦労なことだ」と言って、風呂のなかで心持よく足を伸ばしました。