ドストエフスキー『悪霊』

彼女の心中には、彼に対する不断の憎悪、嫉妬、軽蔑の気持にまじって、やむにやまれない愛情が秘められていた。夫人は二十二年このかた、塵っぱひとつ彼の身にかからぬようにと、それこそ乳母のように彼の世話をやいてきた。もし問題が、詩人としての、学者としての、市民的活動家としての彼の名声にかかわることででもあれば、夫人は心労のあまり、夜もおちおち眠れないほどであった。彼女は、自分の頭の中で彼を創り出し、その想像の所産をまず自身が真っ先に信じたのである。彼は夫人にとって、いわば夢にもひとしい存在であった……ただしその代償として、夫人は実に多くののことを、時には奴隷的服従をまで彼に要求した。彼女が想像を絶するほど執念深い性格だったこともある。

いかにもシニカルな考えにはちがいない。けれど人間、あまりに高尚になりすぎると、その教養が多面的になるという理由ひとつだけからしても、えてしてシニカルな考え方に陥りがちなものである。

「出発のときのぼくらは腑抜けも同然でしたよ」とステパン氏はよく話してくれた。

彼は、ある力強い思想に打たれると、たちまちその思想に圧倒されて、ある場合には永遠にその影響を抜け出せなくなる、そういった類いの純粋なロシア人の一人であった。こういう連中は、思想を自分なりに消化するということがけっしてできず、ただやみくもにそれを信じこんでしまうので、その後の全人生は、彼らの上にのしかかって、もう半分は彼らを押しひしいでしまった大石の下で、気息奄々と最後のあがきをつづけるといった態のものになるのである。

「ぼくはこの明るい希望に背を向けるようなことは、けっして、けっしてしませんよ」――彼はよく目を輝かして私に言ったものだった。この《明るい希望》の話になると、彼はいつも秘密を明かすようなひそひそ声になり、静かな、陶然とした物言いになった。

「要するに、すべては無為怠惰の産物なんだな。わが国では、どんな立派なよいことも、無為怠惰から生ずる。わが旦那方の、愛すべき、教養ある、気まぐれな無為怠惰からね!ぼくは三万年でもこのことをくり返すな。ぼくらは自分の労働で生活することができないんですよ。それを、連中はなんでまた、わが国に世論が《生れた》なんぞとふれまわるんだろう、――それこそ藪から棒に、天から降ってでも来たんですかね?自分の意見をもちうるためには、何よりもまず労働が、自分自身の労働が、自分自身の手による開拓と実践が必要であることぐらい、連中にもわかりそうなものだが!坐していては何も手にはいりませんよ。労働することによって、はじめて自分の意見がもてる。ところがわれわれはけっして労働しようとしないから、そこで意見のほうも、これまでわれわれに代って働いてくれた連中、つまり、二百年来われわれの教師であった、あいかわらずのヨーロッパ、あいかわらずのドイツ人が、われわれに代ってもってくれるわけです。そこへもってきて、ロシアというやつは、ドイツ人の助けなしで、労働せずして、われわれだけで解きあかすには、あまりにも大きな謎ですからね。だからこそぼくも二十年来、警鐘を鳴らしつづけ、労働を呼びかけているわけです!ぼくはこの呼びかけに生涯をかけて、愚かにも、その効果を信じてきた!いまはもう信じちゃいないが、それでも警鐘は鳴らしつづける、いや、最後まで、死ぬときまで鳴らしつづけまうよ。ぼくの追善供養の鐘が鳴りだすときまでは、綱を引きつづけますよ!」

「ずばり図星ですね。賢い人がいるということは、つまり、ぼくらより正しい人がいるということだから、してみると、ぼくらも誤りを犯すことがありうると、こうなりますね?デモ・トモヨ、かりにぼくが誤っているとしてもですよ、ぼくにはそれでも、自由な良心という全人類的な、永遠の、最高の権利がありますからね。ぼくには、自分の欲するところにしたがって、偽善者や狂信者にならないでいる権利がある、当然、そのためにこの世の終りまで、さまざまな人から憎まれつづけることにはなるでしょうけれどね。ソレニ・コノヨニハ・ドウリヨリ・ボウズガオオイのたとえで、ぼくもこれにはまったく同感ですからね……」

「首を吊りたいなんぞと言っておどかすだろうけれど、本気にするんじゃないよ、みんなたわごとなんだから!本気にしないでもいいけど、やっぱり油断をしてはだめよ、ひょっとして首を吊ってしまわないでもないからね。ああいう人にはよくあることなんだから。力があまって首を吊るのじゃなくて、力が足りなくてそうすることが。だから、いつも最後のぎりぎりのところまでは持っていかないようにしなくちゃ、それが夫婦生活の第一の要諦なんですよ。それから、あの人が詩人だということも忘れるんじゃないよ。いいかい、ダーシャ、自分を犠牲にする以上のしあわせはないんですよ。おまけにおまえはたいへんわたしを喜ばせてくれることになる、そこが大事なところでね。いまわたしの言ったことを口からでまかせだなんて思うんじゃないよ。わたしはちゃんと心得て話しているんだから。わたしはエゴイストだけど、おまえもエゴイストになることさ」

いま、こうして過去を回想する段になると、私としては、彼女が当時の私にそう思えたほどの美人であるとは断言しかねる。もしかすると、彼女は全然美人ではなかったのかもしれない。背が高く、ほっそりとしているくせに、しなやかで強靭な体つきをしていたけれど、彼女の顔立ちは見る人に奇異の感をいだかせるほど均整を欠いていた。目はどこかカルムイク人風に、斜めに吊りあがっていたし、顔は血の気がなく、頬骨が突き出て、浅黒く、痩せていた。だが、それでいてこの顔には、人を征服し、魅了せずにおかない何かがあった!何か力づよいあるものが、彼女の黒ずんだ目の燃えるような輝きのなかにあって、彼女はまさしく《征服者として、また征服せんがために》この世に現われてきたかのようだった。彼女は傲慢に、ときには不遜にさえ見えた。彼女がやさしい女性になりえたときがあったかどうかは知らないが、しかし彼女が無理にも自分を多少ともやさしい女性にしようと熱望し、そのことで苦しんでいたのはたしかである。もちろん、この女性の本性には、多くの美しい願望や正しい意図が秘められているが、しかし彼女の内部のいっさいは、たえず自身の均衡を求めながら、永遠にそれを見いだせないでいる趣があって、いっさいが混沌と、動揺と、不安のただなかに置かれてでもいるようだった。ことによると、彼女は自分に対してあまりに厳格な要求をもちすぎ、その要求を充たすだけの力を自身のうちに見いだしかねていたのかもしれない。

「リプーチンは弱虫か、せっかちか、腹黒いか、でなければ……うらやんでいるんですよ」
最後の言葉は私をぎくりとさせた。
「もっとも、それだけいろいろな定義を並べられたら、どれかに当てはまる道理でしょう」
「あるいはその全部に」
「いや、それもそうかもしれない。リプーチン――あれは混沌ですからね!」

「ぼくのほうは、なぜ人間があえて自殺しようとしないのか、その原因を探求しているんで、それだけのことなんです。でも、こんなことはどうでもいい」
「あえてしないというのは?自殺が少ないというわけでも?」
「非常に少ないですね」
「ほんとうにそうお考えですか?」
彼はすぐには答えず、立ちあがって、何か考えこみながら部屋の中を行ったり来たりしはじめた。
「あなたの考えだと、人間に自殺を思いとどまらせているのは何なのです?」私はたずねた。
私たちが何を話していたのかを思い出そうとでもするように、彼はぼんやりとこちらを見た。
「ぼくは……ぼくはまだよくわかりません……二つの偏見が思いとどまらせていますね、二つのこと。二つきりです。一つはたいへん小さなことで、もう一つはたいへん大きなことです。でも、その小さなことも、やはり大きなことにはちがいない」
「小さなことというと?」
「痛いことです」
「痛いこと?そんなことが重要ですかね……この場合に?」
「いちばんの問題ですよ。二種類の人があって、非常な悲しみや憎しみから自殺する人たち、でなければ気がちがうとか、いや、なんでも同じだけれど……要するに、突然自殺する人たちがいます。この人たちは苦痛のことはあまり考えないで、突然です。ところが思慮をもってやる人たち――この人たちはたくさん考えますね」
「思慮をもってやる人なんかがいるものですかね?」
「非常に多いですね。もし偏見がなければもっと多いでしょう。非常に多い。みんなです」
「まさかみんなとはね」
彼は口をつぐんでいた。
「でも、苦痛なしに死ぬ方法はないものですかね?」
「ひとつ想像しててみてください」彼は私の前に立ちどまった。「大きなアパートの建物ほどもある石を想像してみてください。それが宙に吊るしてあって、あなたはその下にいる。もしそれがあなたの頭の上に落ちてきたら、痛いですかね?」
「建物ほどの石?もちろん、こわいでしょうね」
「ぼくはこわいかどうかを言ってるんじゃない、痛いでしょうかね?」
「山ほどの石、何十億キロのでしょう?痛いも何もあるものですか」
「ところが実際にそこに立ってごらんなさい。石がぶらさがっている間、あなたはさぞ痛いだろうと思って、ひどくこわがりますよ。どんな第一流の学者だって、第一流の医者だって、みんなこわがるにちがいない。だれもが、痛くはないと承知しながら、だれもが、さぞ痛いだろうとこわがる」
「なるほど、では第二の原因は、大きいほうは?」
「あの世です」
「というと、神罰ですか?」
「そんなことはどうでもいい。あの世、あの世だけです」
「でも、あの世なぞまるで信じていない無神論者だっているでしょうに?」
彼はふたたび押し黙った。
「あなたは、たぶん、自分に照らして判断されているんじゃありませんか?」
「だれだって自分に照らしてしか判断できませんよ」彼は赤くなって言った。「自由というのは、生きていても生きていなくても同じになるとき、はじめてえられるのです。これがすべての目的です」
「目的?でも、そうなったら、だれひとり生きることを望まなくなりはしませんか?」
「ええ、だれひとり」彼はきっぱりと言いきった。
「人間が死を恐れるのは、生を愛するからだ、ぼくはそう理解しているし」と私が口をはさんだ。「それが自然の命ずるところでもあるわけですよ」
「しれが卑劣なんです、そこにいっさいの欺瞞のもとがあるんだ!」彼の目がぎらぎらと輝きだした。「生は苦痛です、生は恐怖です、だから人間は不幸なんです。いまは苦痛と恐怖ばかりですよ。いま人間が生を愛するのは、苦痛と恐怖を愛するからなんです。そういうふうに作られてもいる。いまは生が、苦痛や恐怖を代償に与えられている、ここにいっさいの欺瞞のもとがあるわけです。いまの人間はまだ人間じゃない。幸福で、誇り高い新しい人間が出てきますよ。生きていても、生きていなくても、どうでもいい人間、それが新しい人間なんです。苦痛と恐怖に打ちかつものが、みずから神になる。そして、あの神はいなくなる」
「してみると、いまは神がいるわけですね、あなたの考えだと?」
「神はいないが、神はいるんです。石に痛みはないが、石からの恐怖には痛みがある。神は死の恐怖の痛みですよ。痛みと恐怖に打ちかつものが、みずから神になる。そのとき新しい生が、新しい人間が、新しいいっさいが生まれる……そのとき歴史が二つの部分に分けられる――ゴリラから神の領域までと、神の領域から……」
「ゴリラまでですか?」
「地球と、人間の肉体的な変化までです。人間は神になって、肉体的に変化する。世界も変るし、事物も、思想も、感情のずべても変る。どうです、そのときは人間も肉体的に変化するでしょう?」
「生きていても、生きていなくても同じだということになったら、みんな自殺してしまうだろうし、それが変化ということになりますかね」
「それはどうでもいい。欺瞞が殺されるんです。最高の自由を望む者は、だれも自分を殺す勇気をもたなくちゃならない。そして自分を殺す勇気のある者は、欺瞞の秘密を見破った者です。その先には自由がない。ここにいっさいがあって、その先には何もないんです。あえて自分を殺せる者が神でう。いまや、神をなくし、何もなくなるようにすることはだれにもできるはずです。ところが、だれもまだ一度としてそれをしたものがない」

「いや、きみ、きみはまた一つ別の傷口にさわってくれましたね、きみの友情にあふれた指で。この友情にあふれた指というのはえてして残忍なものでね、時には理不尽でもある、いや、失礼、でも、信じてはもらえないだろうけれど、ぼくはあのこと、あの汚らわしい話のことはほとんど忘れていたんですよ、つまりね、けっして忘れていたわけじゃないが、リーズのところにいた間じゅう、ぼくは幸福になろうとつとめえちた、おれは幸福なんだと自分に言いきかせていたんですよ。しかし、いまは……ああ、いまぼくの頭にあるのは、あの心の大きな、人道的な、ぼくの醜い欠点をじっと忍んでくれる夫人のことなんですね、いや、じっと忍んでくれるばかりでもないけれど、だいたいぼく自身がこんな男だもの、空疎な、醜い性格の持主だもの!そう、ぼくはわがままな子供ですよ、子供のエゴイズムはそっくりもちあわせているくせに、無邪気なところだけはない子供なんだな。あの人は二十年間、乳母のようにぼくの面倒を見てきてくれた、リーズの上品な呼び方を借りれば、あのおかわいそうな伯母さまはね……ところが二十年たったら、突然この子供が結婚したいと言いだした、結婚させてよ、結婚させてよ、とつぎからつぎへと手紙を書く、あの人のほうは頭を酢で冷やす騒ぎだ……で、とうとうその願いがかなって、今度の日曜には妻帯者の誕生ということになる、冗談じゃないですよ……」

「かわいそうに、きみは女性を知らないんですよ、ところがぼくはひたすら女性の研究をしてきたんですからね。『全世界を征服せんと欲すれば、まずおのれ自身に勝利せよ』――これは、きみの同類のロマンチストであるシャートフ君、ぼくの義兄が吐いた唯一の名言ですよ。この言葉をぼくは喜んで彼から借用したいですね。そこでぼくもいよいよ自分に勝利する決心がついて、結婚するわけだが、全世界はさておき、ぼくが征服できるのは何ですかね?ねえ、きみ、結婚というのは、誇りをもった人、独立心に燃える人にとっては、つねに精神的な意味での死ですよ。結婚生活はぼくを堕落させて、事業に奉仕するための精力も勇気も吸いとってしまうでしょうよ。それで、子供でもできれば……いや、もしかしたら、自分のではなくて、なに、知れたこと、ぼくの子供じゃない。賢い人は事実を直視することを恐れないからね……リプーチンはさっきバリケードを築いてニコラスを寄せつけるなと勧めていたが、あれはばかですよ、リプーチンは。女というものは、千里眼のような眼光の持主でもあざむきおおせるからね。ゼンリョウナル・カミハ、女を創られるにあたって、もちろん、どんな結果になるかご存知だったろうけれど、ぼくの信じているところでは、そのとききっと女のほうが邪魔を入れて、あんなふうに……つまり、ああいう属性をもったものに創らせたのだと思いますね。でなくて、だれがあんな七面倒くさい仕事をただで引受けたりするものですか?ナスターシャはきっと、こんな自由思想を聞いたら腹を立てるだろうが……要するに、スベテ・オワレリですよ」

私はこれまで人間の顔にこれほどまでの暗さ、陰気さ、鬱陶しさを見たことがない。彼の顔つきは、まるで世界の崩壊を待ってでもいるふうだった。それも不確かな、かならずしも実現するとはかぎらない予言を信じて待っているのではなく、あくまでも正確に、たとえば、明後日の午前十時二十五分きっかりにそうなるといった待ち方なのである。

「ロシアの無神論は駄洒落の域を出たことがないんです」消えかかった蝋燭を新しいのに代えながら、シャートフがつぶやいた。
「いや、彼は駄洒落なんて柄じゃないと思いますね。洒落どころか、満足に話もできない感じですよ」
「紙でできた人間なんです。何もかも思想の下男根性のせいですよ」隅のほうの椅子に腰をおろし、両手を膝についた格好で、シャートフは冷静に言った。
「憎悪もあるんだな」しばらく黙っていてから、彼はまた口を切った。「もしロシアが何かこうふいに改革されて、まあ、あの連中の方式でもいいけれど、何かこうふいに途方もなく豊かで幸福な国になったとしたら、真っ先におそろしく不幸になるのはあの連中でしょうね。そうなったら、あの連中、憎悪の対象も、唾を吐きかける相手も、嘲弄する相手もなくなるんだから!あの連中にあるのは、ロシアに対する動物的な、際限のない憎悪、体質にまでなってしまった憎悪ですよ……目に見える笑いのかげにひそむ、世人には見えない涙なんてものはありやしない!あの目に見えぬ涙うんぬんくらいそらぞらしい言葉は、かつてロシアで言われたためしがないな!」彼は狂暴とも思える声で絶叫した。

「人間は自分の心の高潔さだけから死ぬことができるものでしょうか?」
「存じませんね、わたし、そんな質問を自分にしてみたことがありませんから」
「ご存じない!こういう質問をご自分になさったことがない!!」大尉は皮肉たっぷりに叫んだ。「もしそういうことなら、そういうことなら――
望みなき心よ、黙すがよい!
ですな!」こう言うと彼は自分の胸を荒々しく叩いた。
彼はすでにふたたび部屋の中を歩きまわりはじめていた。自分の欲望をどうにもこらえられないのが、こういう連中の特徴である。それどころか、この連中は、いったん何かの欲望が生じると、それがどんなに醜悪なものであっても、ただいにそれをぶちまけてしまいたい衝動を抑えられない。よそゆきの席に出ると、この手合いはたいてい最初はおずおずとしているが、ほんのわずかでもこちらが下手に出ようものなら、たちまちがらりと態度を変えて、厚顔不遜そのものになる。

「ですから、もしいつもニコラスの身近に(ワルワーラ夫人はもう半ば歌うような調子になっていた)、もの静かな、謙虚さこのうえもないホレーショのような友がついていたら――ステパンさん、これもあなたの使われたすばらしい言葉ですわ、――おそらくあの子は、生涯あの子をさいなみつづけた憂鬱な、そして『発作的な皮肉の悪魔』からもうとっくに救われていたにちがいありません(この皮肉の悪魔というのも、ステパンさん、あなたの発明ですのよ)。でもニコラスには、ホレーショもオフェリアもいたためしがありませんでした。あの子についていたのは母親ひとりでしたけれど、母親ひとりで、しかもあんなことになってしまったら、いったい何ができたでしょう?ねえ、ピョートルさん、わたしはニコラスのような人間が、あなたの話してくだすったような不潔な貧民窟に出入りするようになったわけが何か、わかりすぎるくらいわかってきましたの。わたしの目には、その《冷笑的》な生活というのが、(ほんとにぴったりした言い方ですわ!)飽くことを知らない反対極(コントラスト)への渇望が、ピョートルさん、またあなたの言い方を借用させていただくと、あの子がダイヤモンドのように見えるというその陰鬱な背景が、まざまざとうかんでくるようですの。そして、ほかでもないそういう場所で、あの子はみなから辱められているかたわの狂女、けれど、崇高そのもののような心をもった女性にめぐり合ったのです!」

「というと、悪ければ悪いほどいいという意味なんですね、わかりますよ、奥さん、ぼくにもわかりますよ。つまりそれは宗教なんかで言うのと同じことでしょう。人間の生活が苦しければ苦しいほど、また一国の民衆が虐げられ、貧しくあればあるほど、天国での酬いを夢見る気持ちはますます強くなってくる、しかもそこへもってきて、十万人もの坊主どもが、懸命になってその夢を焚きつけ、それをたねにひと儲けをたくらもうとするんですからね……ぼくにはあなたのおっしゃることがよくわかりますよ、ワルワーラさん、安心してください」
「いえ、どうもすこしちがうようですけど、でも、聞かせていただけません、どうしてニコラスはあの不幸なオルガニズム(ワルワーラ夫人がなぜここで《オルガニズム》という言葉を使ったのか、わたしにはわからなかった)がいだいた空想の火を消すために、どうして自分もあの女を笑いものにしたり、ほかの役人たちと同じような態度をあの女に取ったりしなければならなかったんでしょう?あなたはニコラスのもっていた気高い同情の気持ち、全オルガニズムの崇高な戦慄を否定なさいますの?それあればこそニコラスがふいにきっとなって、『ぼくはあの女を笑いものにしているのじゃない』とキリーロフさんに答えたのじゃありませんか。なんと崇高な、神聖な答えでしょう!」

けれど真実の、疑いようもない悲しみというものは、稀に見るほど浅薄な人間をも、たとえわずかの間にもせよ、意志堅固なしっかりした人物に帰ることがあるものである。いや、そればかりか、むろん、一時だけのことだが、これは明らかに悲しみの特質なのだ。

もう一度読者に断っておきたいが、ニコライ・スタヴローギンはけっして恐怖心を表にあらわさない性質の人間であった。決闘で冷静に相手の発射を待ち受けることもできれば、ゆっくりと狙いを定めて、野獣のように冷静に相手を殺すこともできた。もしだれかに頬をなぐられたりすれば、相手に決闘を申し込むまでもなく、その場で無礼者を叩き殺してしまいそうにも思えた。彼はまさしくそういう人間で、人を殺すにも完全に意識を保ったままやってのけ、けっして我を忘れてするというふうではない。私の感じでは、彼は一度として、分別も何も失うほどの盲目的な怒りの発作にかられたことはないようにさえ思われる。時として際限のない憎悪におそわれることはあったが、その場合でも彼はつねに自制を失わず、したがって、決闘以外で人を殺せば確実に徒刑送りになることを心得ていた。それでいて彼は、なんの躊躇もなく無礼者を殺すことができるのである。

「すべてです。人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないから、それだけです。これがいっさい、いっさいなんです!知るものはただちに幸福になる。その瞬間に。あの姑が死んで、女の子が一人で残される――すべてすばらしい。ぼくは突然発見したんです」
「でも、餓死する者も、女の子を辱めたり、穢したりする者もあるだろうけれど、それもすばらしいのですか?」
「すばらしい。赤ん坊の頭をぐしゃぐしゃに叩きつぶす者がいても、やっぱりすばらしい。たたきつぶさない者も、やっぱりすばらしい。すべてがすばらしい、すべてがです。すべてがすばらしいことを知る者には、すばらしい。もしみなが、すばらしいことを知るようになれば、すばらしくなるのだけれど、すばらしいことを知らないうちは、ひとつもすばらしくないでしょうよ。ぼくの考えはこれですべてです、これだけ、ほかには何もありません」

「ぼくは自分を尊敬してほしいのです、要求します」シャートフは大声を張りあげた。「ぼくの人格に対してじゃない、そんなものは糞くらえだ、そうじゃなくて、ほかのことです、いまこうしている間だけでもいい、ほんの数言いう間だけでもいい……ぼくらは二つの存在だけれど、それが無限の中で一体になったのです……世界のいまわに。あなたの話しぶりを変えて、人間的なものにしてください!せめて生涯に一度なりと人間の声で話してください。ぼく自身のためじゃない、あなたのためです。いいですか、ぼくはあなたの顔をなぐったけれど、そのことによってあなたに自分の無限の力を認識させる機会を提供したんですからね、この理由ひとつからでもぼくを許してくれなければいけませんよ……あなたはまた例のいやらしい社交的な微笑を浮かべるんですね。ああ、いつになったらあなたはぼくのことをわかってくれるんだろう!その坊っちゃん面をやめてください!ぼくがこれを要求している、要求しているんだということをわかってください、でなけりゃ、ぼくは話したくない、どんなことがあったって話しやしない!」

「いかなる国民も」と、彼はまるで書いたものを読むように、それでいてあいかわらずすさまじい目つきでスタヴローギンを見つめながら話しはじめた。「いかなる国民もいまだかつて科学と理性に基づいて存在したためしはない。ほんの一般的に、ばかげた気の迷いでそうなったのを別にすれば、そんな実例は一度としてなかった。社会主義はその本質からいってすでに無神論たるべきものである。なぜなら社会主義は、まず開口一番、それが無神論的な制度であって、科学と理性は諸国民の生活においてはつねに、現在も、また天地開闢以来、たんに第二義的な、副次的な役割を果たしてきたにすぎない。世界の終末のまでこのことは変らないだろう。諸国民を組織し、動かしているのは、命令的で支配的な別の力であるが、この力の起原は不明であり、説明不可能である。この力はあくことなく究極に到達しようとする願望の力であると同時に、この究極を否定する力でもある。これはおのれの存在をたえまなく、倦むことなく確認し、死を否定する力である。それは生の精神、聖書が『生ける水の流れ』と説き、その枯渇を『黙示録』が警告してやまないものである。哲学者に言わせれば、それは美の原理であり、哲学者自身が同一視しているように、同時にそれは道徳の原理でもある。私はそれを最も簡潔に《神の探究》と呼ぶ。一国民の全運動の目的は、いかなる国民においても、またその国民の存在のいかなる時期においても、ただ一つの神の探究、自身の神、ぜひともおのれ自身の神の探究でしかありえないし、またその神を唯一真実のものとして信仰することでしかありえない。神は一国民の起原から終末にいたるまでの全体を代表する総合的人格である。すべての国民、と言わぬまでも多くの国民が一つの共通の神をもっていた例はいまだかつてなく、つねにそれぞれの国民が独自の神をもっていた。神が共通のものになりはじめるのは、国民性の滅亡の前兆である。神が共通のものとなれば、神も神への信仰も、その国民自身とともに死滅する。一国民が強力であればあるほど、その神は独自である。宗教をもたぬ国民、つまり善悪の観念をもたぬ国民はいまだかつてなかった。あらゆる国民が善悪についてのおのれの観念をもち、おのれの善悪をもっていた。多くの国民の間で善悪の概念が共通なものになりはじめると、国民は死滅し、善悪のけじめそのものも摩滅し、消え去っていく。理性はかつて善悪を規定しえたことがないし、たとえ近似的にでも善悪を区別しえたことさえない。それどころか、いつもぶざまな、みじめな混同をやってきた。科学にいたっては、力づくの解決しかもたらさなかった。この点でとくにきわだっているのは半科学であって、今世紀まではまだ知られていなかったけれど、これは疫病や飢餓や戦争よりもひどい、人類に対する最も恐るべき鞭である。半科学――それは今日までまだ現われたこともないような専制者である。この専制者は、おのれの神官と奴隷をもち、すべての者が、これまで考えられもしなかったような愛と迷信をいだいてその前にひざまずき、科学そのものさえもその前ではふるえおののいて、恥ずかしげもなくそのご機嫌をとり結ぶ。これはみんなあなた自身の言葉なんですよ、スタヴローギン、半科学についての言葉だけは別だけれど。これはぼくの言葉です、なぜならぼく自身が半科学でしかないから、当然、とりわけ強くそれを憎悪しているんです。あなたの思想については、いや言葉そのものについてさえ、ぼくは何ひとつ変えちゃいません、一言も」
「変えなかったのは思いませんね」スタvyローギンが用心深く口をはさんだ。「きみは熱烈に受け入れて、それとは気づかず、熱烈にそれを別物にしてしまったのですよ。きみが神を民族のたんなる属性に引きおろしてしまった一事からだけでもそう言える……」
彼は何か特別に注意をこらして、ふいにシャートフを注視しはじめた。彼の言葉というより、むしろ彼自身をである。
「神を民族の属性に引きおろした?」シャートフは絶叫した。「反対です、国民を神にまで引きあげたんです。だいたい、いあっまでにそうでなかったことがありますか?国民は神の肉体です。あらゆる国民は、自身の独自の神をもち、この世のあらゆる神を妥協なく排除するかぎりにおいてのみ国民なのです。自身の神によって他のすべての神を征服し、世界から追放できると信じているかぎりにおいてのみ、国民なのです。開闢以来、どの国民もそう信じてきました。すくなくとも大国民、多少なりとも名を知られ、人類の先頭に立った国民はすべてそうでした。事実を無視して進むことはできません。ユダヤ人は真実の神を待ちおおせ、真実の神を世界に残すためにのみ生存したのです。ギリシャ人は自然を神と化して、世界に自身の宗教、つまり哲学と芸術を残しました。ローマ人は国家の中の国民を神化して、諸国民に国家を残した。フランスは、その長い歴史を通じて、ローマの神の理念を具現し、発展させたにすぎなかった。そして、ようやくそのローマの神を深淵に投げ捨てたと思ったら、今度は無神論に突っ走った、それをいま彼らは社会主義と呼んでいるのです。それも、無神論のほうがローマ・カトリックよりまだしも健全であるからという、それだけの理由からにすぎない。もし大国民が、自分たちだけに(まさしく自分たちだけにです)真理があると信じられないようなら、もし自国民だけが自身の真理によって他国民を蘇生させ、救済する使命をもつと信じられないようなら、その国民はたちまち人類学上の資料になりさがって、大国民ではなくなってしまう。真の大国民はけっして人類における二流の役割に甘んずることはできないし、一流の役割にさえ甘んじられない。どうあってもかならず第一の役割でなければならないのです。この信念を失ったものは、もはや国民ではない。しかし真理は一つですから、したがって、諸国民の間でただ一つの国民だけが真実の神をもつことができる。なるほど他の諸国民も自分たち独自の偉大な神をもってはいますがね。《神の体得者》である唯一の国民――それはロシア国民です、そして……そして……スタヴローギン、いったいあなたはぼくをそれほどのばかだと思っているのですか」彼はふいに逆上した声で叫んだ。

「ちょっと話のついでに、奇妙に思っていることを言っておきますがね」突然スタヴローギンが口を入れた。「なぜみなが、その旗とやらをぼくに押しつけようとするのですかね?ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーも、やはりぼくが『彼らの旗をかかげる』ことのできる男と思いこんでいるのですよ、すくなくとも、あの男の言葉として聞かされました。あの男は、ぼくが『異常な犯罪能力』をもっていて、――これもあの男の言葉ですがね、――彼らのためにステンカ・ラージンの役どころを引受けられると信じきっているんですよ」
「なんですって?」とシャートフがきいた。「『異常な犯罪能力』ですって?」
「そのとおりです」
「ふむ。で、あれはほんとうなんですか、あなたが」彼は毒々しい微笑を浮かべた。「ほんとうなんですか、あなたがペテルブルグで、獣的な好色秘密クラブの会員だったというのは?サド侯爵でさえ、あなたには兜を脱いだだろうというのは?幼い子供を誘惑して、堕落させていたというのは、ほんとうなんですか?言ってください、嘘を言ったら承知しませんよ」彼は、ほとんど我を忘れたように叫んだ。「ニコライ・スタヴローギンが、自分の顔をなぐったシャートフの前で嘘をつくわけにはいかんのです!何もかも言ってください、そして、もしそれがほんとうなら、ぼくはいますぐ、この場で、あなたを殺してやる!」
「そういうことは言ったけれど、子供たちを辱めたのはぼくじゃない」スタヴローギンはこう言ったが、それはすこし長すぎる沈黙の後だった。彼は青ざめ、その目がきらきらと輝きだした。
「でも、言いはしたんですね!」ぎらぎらする目を相手の顔から離さず、シャートフは高飛車につづけた。「あなたがこう言ったとかいうのはほんとうですか、何か好色な、獣的な行為と、たとえば人類のために生命を犠牲にするような偉業との間に、美の差異を認められないと断言したというのは?あなたがこの両極のなかに美の一致、快楽の同一性を見いだしたというのはほんとうですか?」
「そう言われると返事ができませんね……返事をしたくない」スタヴローギンは、いかにも立ちあがって出ていきたそうな様子を見せながらこうつぶやいたが、立ちあがりもせず、出ていきもしなかった。
「なぜ美が醜く、善が美しいのかは、ぼくにもわからないんです。でもぼくは、この差異の感覚が、なぜスタヴローギンのような人では摩滅され、失われていくのかはわかるんです」シャートフは全身をふるわせながらもあとへは退かなかった。「いったい、どうしてあなたはあのとき、あれほど醜悪で下劣な結婚をしたんです?ほかでもない、あの場合、醜悪と無意味さが天才の域に達したからなんです!おお、あなたは端のほうから手さぐりでそろそろ行くほうじゃなくて、いきなり頭からどまんなかへとびこむほうなんです。あなたは苦悩を求める情熱から、良心を責めさいなみたい情熱から、精神的な情欲から結婚したんです。あの場合は神経的な発作だったんです……常識に挑戦するのがたまらなく誘惑的だったんです!スタヴローギンと、醜い、半気違いの、貧しいびっこの女!あなたが知事の耳をかじったとき、あなたは情欲を感じましたか?感じたでしょう?のらくらの極道坊ちゃん、感じたでしょうが?」

レビャートキン大尉は飲んだくれることだけはやめていたが、やはり均衡のとれた状態とはほど遠いように見えた。こういう年季のはいった酔っぱらいは、必要とあrば人並みに嘘もつくし、悪知恵も働かせ、人をペテンにかけもするが、長年のうちにはどことなくピントのはずれた、ぼけたようなところ、何ひとつ心棒の抜けたような、気違いじみたところが固定化して、容易に抜けなくなるものなのである。
「ぼくの見るところ、大尉、きみはこの四年間、まるで変っていないねえ」ニコライはいくらかやさしい調子でこう言った。「どうやら、ほんとうのことらしいな、人間の後半生はふつう前半生に蓄積された習慣だけから成り立つというのは」
「高遠なお言葉ですなあ!あなたは人生の謎を解いてしまわれる!」なかば悪ふざけ気味に、またなかばは、警句の大好きな男であるだけに、事実、いつわらぬ喜悦にもひたりながら、大尉は叫んだ。「ニコライさま、あなたの口にされたお言葉の中で、とりわけ私の記憶に焼きついているものがございますよ。まだペテルブルグにいらしたころ、『常識に反してまで自分の立場をつらぬくためには、真に偉大な人間である必要がある』とおっしゃいました。これでございます!」
「と同時に、ばかである必要もね」

「ぼくはスタヴローギンのためにならないことは、いっさいきみにさせませんからね」客を送りだしながら、キリーロフはつぶやいた。こちらは驚いて彼を見返したが、何も答えなかった。

「進行?いとも簡単ですよ。ひとつ笑わせてあげましょうか。まずおそろしくきくのが――肩書きなんです。肩書きぐらい強力なものもないな。ぼくはわざと官等や職務を考案していますよ。秘書あり、秘密監視官あり、会計官あり、議長あり、書記あり、その代理ありといったわけでね――こいつはえらくお気に召して、大歓迎でしたよ。つぎに強力なのは、もちろん、センタリズムです。なにしろロシアに社会主義が広まったのは、主としてセンチメンタリズムのせいですからね。ところがそこで困ったのが、例の噛みつき少尉みたいな連中ですよ。ちょっと油断していると、たちまちとびだしてくるのでね。で、そのつぎはほんもののペテン師連中です。いや、これはいい連中でね、時には大いに役に立ちますよ、そのかわりこの連中には時間をくいましてね、なにしろいっときも目が離せないんだから。そこで、最後に、最大の力――すべてを結合するセメントはですね、――これは自分自身の意見に対する羞恥心です。こいつはまさしく強力だな!まったくだれの頭にも自分自身の思想というものがなんいも残らなくなたっとは、いったいだれの働きですかね、どこの《かわいい人》の骨折りですかね!まるで恥だと思っているんですからね」

「きみはいま、サークルがどういう力から成り立っているか、指折りかぞえてみせましたね。その官僚制とかセンチメンタリズムとかは、たしかに立派な糊にはちがいないけれど、もっといいものが一つある。つまり、サークルの四人のメンバーをそそのかして、あとの一人のメンバーを、密告の恐れがあるとかなんとか言って、殺させるんです。そうすればきみはたちまち、その流された血によって、一つ絆で結んだようにあとの四人を硬く結束させられる。きみの奴隷になりきって、謀反を起こすどころか、説明を求めることもしなくなりますよ。は、は、は!」

「古くさいとはなんです?偏見を忘れることは、その偏見がどんなに罪のないものであろうと、古くさいことじゃありませんよ、それどころか、恥ずかしいことに、いまだに新しいことじゃないですか」椅子から猛然と身を乗り出すようにして、女子学生が即座にやり返した。「それに、罪のない偏見なんて存在しないんです」彼女はむきになってつけ加えた。

「彼はですね、問題の最終的解決策として、人類を二つの不均等な部分に分割することを提案しているのです。その十分の一が個人の自由と他の十分の九に対する無制限の権利を獲得する。で、他の十分の九は人格を失って、いわば家畜の群れのようなものになり、絶対の服従のもとで何代かの退化を経たのち、原始的な天真爛漫さに到達すべきだというのですよ、これはいわば原始の楽園ですな、もっとも、働くことは働かなくちゃならんが。人類の十分の九から意志を奪って、何代もの改造の果てにそれを家畜の群れに作り変えるために著者が提案あいておられる方法はきわめて注目すべきものであり、自然科学にのっとったきわめて論理的なものです」

「どうです、スタヴローギン、山をならして平地にする――いい考えでしょう、滑稽どころじゃなき。ぼくはシガリョフ支持ですね!教育なんていらないし、科学もたくさんだ!科学なんぞなくたって、千年くらいは物質に不足しませんからね、それほり服従を組織しなくちゃ。この世界に不足しているのはただ一つ――服従のみですよ。教育熱なんぞはもう貴族的な欲望です。家族だの愛だのはちょっぴりでも残っていれば、もうたちまち所有欲が生じますしね。ぼくらはそういう欲望を絶滅するんです。つまり、飲酒、中傷、密告を盛んにして、前代未聞の淫蕩をひろめる。あらゆる天才は幼児のうちに抹殺してしまう。いっさいを分母で通分する――つまり、完全な平等です」

「スタヴローギン、きみは美男子ですよ!」ピョートルはもう陶然となりながら叫んだ。「きみは自分が美男子だということを知っていますか!きみのいちばんいいところは、きみがどうかするとそのことを忘れている点なんです。ああ、ぼくはきみを研究しましたよ!ぼくはよく横のほうから、物陰からきみを眺めるんです!きみには純真なところ、ナイーヴなところまでありますね、わかってますか?まだある、まだ残っているんです!きみはきっと苦しんでいますね、それも心から苦しんでいるにちがいない、それはきみの純真さのためです。ぼくは美を愛するんですよ。ぼくはニヒリストだが、美を愛するんです。だいたいニヒリストは美を愛さないでしょうか?いや、彼らが愛さないのは偶像だけですよ、ところがぼくは、偶像も愛するんだな!で、ぼくの偶像はきみなんです!きみはだれを侮辱するわけでもないのに、きみはみなから憎悪されている。きみは万人を平等に見ているのに、きみはみなから恐れられている、そこがいいところなんですよ。きみのそばへやってきて、なれなれしく肩を叩こうなんて者はだれもいない。きみはおそろしいアリストクラートなんです。デモクラートをめざすアシストクラートなんて、こいつは魅力的じゃないですか!きみは自分の生命だろうと、他人の生命だろうと、そんなものを犠牲にするくらい屁でもない。きみはまさしく打ってつけの人物なんだな。ぼくに、ぼくに必要なのは、ほかでもない、きみのような人間なんですよ。きみのほかには、ぼくはそういう人をだれも知りません。きみは頭領です、きみは太陽です、ぼくなんかきみの蛆虫ですよ……」
彼はだしぬけにスタヴローギンの手に接吻した。悪寒がスタヴローギンの背を走り、彼はぎくりとしてその手を引っこめた。二人は足を止めた。
「気違い!」スタヴローギンはつぶやいた。

「イワン皇子。つまり、きみですよ、きみなんですよ!」
スタヴローギンはしばらく考えていた。
「僭称者の?」彼はふいにこうたずね、逆上せんばかりになっている相手を深い驚きに打たれてみつめた。「ほう!それがきみの計画だったんですね」
「ぼくらはね、皇子は《身をかくしておられる》と触れまわるんです」愛のささやきにも似た小声でヴェルホーヴェンスキーは言った。事実、何かに酔ってでもいるようだった。「きみにはわかりますか、《身をかくしておられる》というこの言葉の意味が?けれど皇子はかならず現われる、かならずなんです。ぼくらは去勢宗徒の連中よりはもうちっと気のきいた伝説を流しますよ。皇子は実在する、だがだれも彼を見たものがない。ああ、すばらしい伝説が流せるだろうな!ともかく、肝心なのは――新しい力が来るという確信なんです。その新しい力こそが必要なんで、みなはそれを待ちこがれて泣きださんばかりなんです。社会主義には何があります、旧い力は破壊したが、新しい力はもたらさなかった。ところがぼくらのは力です、それも、いままで聞いたこともないようなすばらしい力です!地球を持ちあげるためには、ほんの一度だけ梃子をぐいとやればいいんですよ。そうすりゃ、何もかも持ちあがるんです!」

「気が乗らない、そんなことだろうと思ってたよ!」相手は、狂暴な憎悪の発作にかられて叫んだ。「いや、そいつは嘘だな、やくざで、色狂いで、変態貴族のお坊ちゃん、狼みたいに食欲のあるきみがまさかと思いますね!わかってくださいよ、いまやきみのほうがはるかに分がいいのに、それでもぼくはきみをあきらめられないんだから!きみ以外にはこの世界にだれもいないんですよ!外国にいたころにもう、ぼくはきみを思いついたんですよ、きみを見ているうちに、きみを思いついたんです。もし物陰からきみを見ていなかったら、こんな考えは頭にうかびっこなかったんです……」

「ねえ、きみ、これは偉大な思想のためにすることなんだ」明らかに言いわけのためらしく、彼は私に言った。「貴君、ぼくはね、二十五年間居ついた地点から腰をあげて、ふいに動きだすんだよ、どこへかは知らない、しかしぼくは動きだすんだ……」

「わたし、あなたに白状しないといけないけど、まだスイスにいたころから、こんな考えがこびりついているんです。あなたの心には何か恐ろしい、よごれた、血にまみれたものがあって……そのくせ、何かあなたをおそろしく滑稽に見せるものがあるって。だから、もしほんとうなら、わたしに告白なさるのはあおよしになったほうがいいわ。わたし、あなたを笑いものにしますから。あなたを一生涯笑いものにするでしょうから……あら、またお顔が青くなったのね。やめるわ、やめるわ、すぐ出ていくわ」彼女は嫌悪と軽蔑の入りまじった動作で椅子からとびあがった。
「ぼくを苦しめてくれ、ぼくを罰してくれ、ぼくに憎悪をぶつけてくれ」彼は絶望にかきくれて叫んだ。「きみには十分にその権利がある!きみを愛していないくせに、きみを破滅させたことを、ぼくは知っているんだ。そうだよ、『僕は瞬間を自分の手に残しておいた』んだ。ぼくは希望をもっていた……ずっと以前から……最後の希望をもっていた……きみがきのう自分から、ひとりで、進んでぼくの部屋にはいってきたとき、ぼくは、自分の心を照らし出した光明にさからうことができなかった。ぼくはふいに信じてしまった……ことによると、いまでも信じているのかもしれない」

「でも、どうしてひざまずいたりなさいますの?」
「世界に別れを告げるにあたって、きみの内なるぼくの過去のいっさいに訣別したいんですよ!」彼はふいに泣きだして、彼女の両手を涙に濡れた自分の目に押し当てた。「ぼくは、生涯の美しかったすべての前にひざまずいて、接吻して、感謝するんです!ぼくはいま自分を真二つに引き裂いてしまった。向こうにいるのは――二十二年間、空へ翔けのぼることばかりを空想していた狂人!ここにいるのは――打ちひしがれ、凍えきった老家庭教師です……」

彼の話は全体に曖昧で、辻褄が合わなかった。それは、狡猾さとはゆかりのない人間が、誠実な人柄であるだけに、山ほどの誤解を一時に解かねばならない苦しい羽目に立たされて、不器用な正直者の悲しさ、どこからどうはじめてどう締めくくればいいのか、自分でも思案にあまっているような趣があった。

彼は深い物思いに沈んでいた。彼は一時に二つのことができた――うまそうに食いながら、瞑想に沈むのである。

シャートフは部屋の反対側、五歩ばかり離れたところに、彼女と向かい合って立ち、おずおずとながら、何か生まれ変わりでもしたように、これまでについぞない輝きを顔に浮かべて、彼女の言葉に耳を傾けていた。髪の毛をいつもさかだてている、この気性のはげしい、人づきの悪い男が、ふいに柔和そのもののようになって、顔つきまで晴ればれとしてきた。彼の心の中で、何か思いもかけぬ異常な感覚がうごめいた。三年の別離、破れた結婚生活の三年も、彼の胸から何ひとつ葬り去ることはできなかったのだ。ことによったら、彼はこの三年の間、毎日のように彼女にあこがれ、かつて自分に「愛してるわ」と言ってくれたこのかけがえのない人のことを夢に見ていたのかもしれない。シャートフを知っているものとして、私は断言できるが、彼はだれかほかの女性が自分に「愛してるわ」と言ってくれようなどとは、夢にも考えることができなかった。彼は奇怪なくらい純真で、恥ずかしがりやで、自分のことをひどい醜男と考え、自分の顔や自分の性格を憎悪して、市場の立つときにあちこちで見世物にされる怪物同然に自分を考えていた。こういうことの結果として、彼は潔癖さを何よりも重んじ、狂信的なくらい自分の信念に忠実で、陰気くさく、傲慢で、怒りっぽく、無口な男になっていた。ところがいま、彼を二週間のあいだ愛してくれたこのただ一人の女性(このことを彼はいつどんなときでも信じていた!)――彼女のあやまちをそれなりに冷静に受けとめながらも、それでも自分よりははかり知れぬほど高い人間だといつも思いこんできた女性(このことはもう疑問の余地もなかった、いや、それどころか、むしろその反対で、彼の考えによると、彼女に対しては何につけ、悪いのはすべて自分ということになってしまうのだった)、――そういう女性、すなわち、ほかならぬマリア・シャートワが、ふいにまた彼の家に現われ、彼の前にすわっているのである……これはもうほとんど理解を絶したことであった!彼にとってはかり知れぬほどの恐ろしさと、同時にはかり知れぬほどの幸福感とが含まれているこの出来事に、彼はあまりにもはげしい衝撃を受け、むろんのこと、彼はもう正気に返ることもできなかった。いや、ひょっとすると、彼は正気に返ることを望まず、恐れていたのかもしれない。

「人間はまず徐々に、本を読むことを習い覚える、もちろん、何世紀もかかってさ。ところが、本そのものはたいしたものじゃないと考えて、乱暴に扱ったままそこらにほうりだしておく。製本というのはもう本に対する尊敬を意味していてね、たんに本を読むのが好きになっただけじゃなく、それを一つの仕事と認めたことのしるしなのさ。ロシアはまだその段階まで達していないね。ヨーロッパはもうだいぶ前から製本しているけど」
ペダンチックだけど、なかなか気のきいた意見だし、三年前を思い出すわ。三年前にも、どうかするとずいぶん機知があったわ」

「おお、マリイ!この三年の間にどれほどいろいろのことがあったか、知ってもらえたらなあ!あとから聞いたことだけど、きみはぼくが転向したと言って、ぼくを軽蔑したそうだね。しかし、ぼくが見捨てたのはだれだろう?生きた現実生活の敵、自立を恐れる時代おくれのリベラリスト、思想の下男、個性と自由の敵、死屍と腐肉の老いぼれた宣伝者どもだよ!やつらのところに何がある?老衰と、中庸精神と、俗物臭ふんぷんたる、あさましいばかりの無能無才ぶり、ねたみがましい平等主義、自身の尊厳を忘れた平等主義、下男の考えるような、九三年のフランス人が考えたような平等主義だ……それよりひどいのは、どこへ行っても人非人人非人人非人ばかりということだ!」
「そうよ、人非人がうようよしてる」切れぎれな、病的な口調で彼女が言った。

<信条と人間――これは、どうやら、いろんな点でまるで異なった二つのものらしいぞ。ぼくは、もしかしたら、あの人たちに対してずいぶん罪なことwしているのかもしれない!……みんな罪がある、みんな罪があるんだ……だから、みながそのことに気がつきさえすれば!……>

「なんて……かわいい……」彼女は微笑を浮かべ、弱々しい声で言った。
「ふっ、なんて顔をしてるの!」得意満面のアリーナが、シャートフの顔をのぞきこみながら、陽気に笑った。「ほんとに、この人の顔ったら!」
「浮かれてくださいよ、アリーナさん……偉大な喜びなんだから……」マリイは赤ん坊について言ったたった二言で、もう輝きわたらんばかりになったシャートフは、しあわせそのもののめでたい表情でつぶやいた。
「何がいったい偉大な喜びなの?」せわしなく後片付けをし、それこそ懲役囚のように立ち働きながら、アリーナは陽気に言った。
「新しい生の出現の神秘ですよ、大きな、説明のつかない神秘ですよ、アリーナさん、これがあなたにわからないとは残念だな!」
シャートフは熱に浮かされたように有頂天で、とりとめもないことをつぶやいた。何かが彼の頭の中でぐらつき、意志とはかかわりなく、おのずと胸からあふれ出てくるようだった。
「二人しかいなかったところへ、ふいに第三の人間が、新しい魂が生まれる。人間の手ではけっしてできないような、完璧に完成された魂がです。新しい思想と新しい愛、恐ろしいみたいだ……世界にこれ以上すばらしいものはない!」
「まあ、くだらない。有機体の生成発展というだけで、神秘なんて何もありゃしないじゃないの」アリーナは心から愉快そうに笑った。「そんなことを言っていたら、蝿一匹も神秘になってしまう。でもね、余計な人間は生まれる必要がないんでしょうね。まず、そういう人たちがよけいでなくなるように、何もかも作り直して、それから子供を生むことですね。でなけりゃ、この子だってあさってには養育院へ連れていかれる……もっとも、そうするのが当然でしょうけれどね」

「あなたにはすっかり笑わされたわ。あなたからお金なんてもらいませんよ。夢にまで笑わされちゃうわ。今夜のあなたくらい滑稽な人は見たこともない」
彼女は大満足の態で引きあげた。シャートフの顔つきと、その話しぶりからして、この男が<父親の仲間入りをしたがっている、およそくだらない屑のような人間>であることは、白日のようにあきらかだった。

「もし神があるとすれば、すべての意志は神のもので、ぼくはその意志から抜け出せない。もしないとすれば、すべての意志はぼくのもので、ぼくは我意を主張する義務がある」
「我意?でもどうして義務なんです?」
「なぜなら、すべての意志がぼくの意志になったから。この地上に、神を滅ぼして我意を信じ、最も完全なる点まで我意を主張する人間は一人もいないではないか。ちょうど貧乏人に遺産がころげこんだが、それを自分のものにする力はないと思いこんで、金袋に近寄る勇気が出ないのと同じで。ぼくは我意を主張したい。たとえ一人きりだろうと、ぼくはやってみせる」
「まあ、やってください」
「ぼくには自殺の義務がある、なぜなら、ぼくの我意の頂点は、自分で自分を殺すことだから」
「しかし、きみだけが自殺するわけじゃない。自殺者はたくさんいますよ」
「理由がある。ところが、なんの理由もなく、ただ我意のためのみに自殺するのは、ぼく一人なのだ」<自殺しないな>ピョートルはまたちらと考えた。
「いいですか」彼はいらだたしげに口を入れた。「ぼくがきみの立場だったら、我意を示すためには、自分じゃない、だれかほかの人間を殺しますね。それなら役に立てますよ。もし怖気づかないようなら、だれを殺せばいいか教えましょうか。それなら、きょう自殺しなくてもいい。相談に乗ってもいいですよ」
「他人を殺すのは、ぼくの我意の最低点だし、そこにきみのすべてがある。ぼくはきみじゃない。だから最頂点を欲して、自分を殺す」<思弁そのものだ>ピョートルは心中、憎々しげにつぶやいた。
「ぼくは自分の不信を宣言する義務がある」キリーロフは部屋を歩きまわった。「ぼくにとって神がないという思想以上に高いものはない。人類の歴史がぼくに味方している。人間がしてきたことといえば、自分を殺さず生きていけるように、神を考え出すことにつきた。これまでの世界史はそれだけのことだった。ぼくひとりが、世界史上はじめて神を考え出そうとしない。永遠に記憶にとどめるがいい」<自殺しないな>ピョートルは不安になった。

「ほんとうらしく思わせるには、できるだけ曖昧に書く必要があるんです、つまり、これですよ、こんなふうにちらとほのめかすんです。真実というやつは、端のほうをちらと垣間見せて、人の気持をそそるのが手なんですよ。人間というやつは、他人に欺かれるよりは、いつも自分で自分を欺くものでね、むろん、他人よりは自分の嘘のほうをよけいに信ずるものなんですよ、これがいちばん、これがいちばんなんですね!」

彼はひどく沈んだ気持で家に戻った。ピョートルがこんなふうに突然、彼らをおいて発ってしまったことが気がかりなのではなかった……ではなくて、あの若い伊達男から声をかけられたとき、彼があんなふうにくるりと自分に背を向けてしまったこと、それより……「じゃ、いずれまた」などではなく、もっと別の言い方がありそうなものではないか、でなければ……でなければ、せめて手なりともうすこし強く握りしめてくれたら。
この最後のことが何より重大であった。彼の哀れな胸を、何か別種のものがかきむしりはじめた。それが何であるかは、まだ自分でもよくつかめなかったが、それは昨夜のことに関係した何かであった。

「みなさん」と彼は言った。「ぼくにとって神が欠かせない存在であるのは、それが永遠に愛することのできる唯一の存在であるからなのです……」
ほんとうに彼が神を信ずるようになったのか、それともいま取行われた秘蹟の荘厳な儀式が彼の心を揺り動かして、生来の彼の芸術家的な感受性を目ざめさせたのか、それはともかく、彼ははっきりとした口調で、また伝えられるところによると、大きな感動をこめて、これまでの彼の信条とは真っ向から背馳するような言葉をいくつか口にしたようである。
「ぼくにとって不死が欠かせないのは、神が不正を行うのを望ます、またぼくの胸の中にひとたび燃え上がった神への愛の火をまったく消し去ることを望まれないという理由によるものです。愛より尊いものがあるでしょうか?愛は存在よりも高く、愛は存在の輝ける頂点です。だとしたら、存在が愛に従わないなどということがありうるでしょうか?もしぼくが神を愛し、自分の愛に喜びをおぼえているとするなら――神がぼくの存在をも、ぼくの愛をも消し去って、ぼくらを無に変えてしまうなどということがありうるでしょうか?もし神が存在するとすれば、このぼくも不死なのです。コレガ・ボクノ・シンコウコクハクデス」

「自分自身より限りなく正しく、かつ幸福なものが存在しているのだとたえず考えるだけで、ぼくの心はもう言い知れない感動と、それから――栄光に充たされるのです。おお、このぼくがたとえ何者だろうと、ぼくが何をしようと、それはもうどうでもいい!人間にとっては自分一個の幸福よりも、この世界のどこかに万人万物のための完成された、静かな幸福が存在することを知り、各一瞬ごとにそれを信じることのほうが、はるかに必要なことなのです……人間存在の全法則は、人間が常に限りもなく偉大なものの前にひれ伏すことができたという一事につきます。もし人間から限りもなく偉大なものを奪い去るなら、人間は生きることをやめ、絶望のあまり死んでしまうでしょう。無限にして永遠なるものは、人間にとって、彼らがいまその上に住んでいるこの惑星と同様、欠かすべからざるものなのです……友よ、すべての、すべての人たちよ、偉大なる思想万歳!永遠にして無限なる思想万歳!人間は、だれであれ、偉大なる思想の現れであるものの前にひれ伏す必要があるのです。どんな愚かな人間にも、なんらかの偉大なものが必要です。ペトルーシャ……ああ、ぼくはあの連中みんなともう一度会いたい!彼らは知らない、知らないんです、彼らの中にも同じく永遠にして偉大なる思想が蔵されていることを!」

私はいたるところで自分の力をためした。これはあなたが、《自分を知るため》にと私に勧めてくれたことだ。自分のため、また他に見せるためにそれをためしてみたとき、この力は、これまでの全生涯を通じてそうであったように、限りもないものに思えた。あなたの目の前で、私はあなたの兄の頬打ちを忍んだ。私は皆の前で結婚を告白した。しかし、この力を何に用いるべきなのか――それが私にはついにわからなかったし、またスイスであなたの承認を受け、私がそれを真に受けたにもかかわらず、いまもってわからない。私はいまもって、いや、以前も常にそうだったのだが、善をなしたいという欲望をいだくことができ、そのことに満足感をおぼえる。と並んで悪をなしたいという欲望をもいだき、そのことにも満足感をおぼえる。しかし、そのどちらの感情も依然として常に底が浅く、かつて非常にのあったためしがない。私の欲望はあまりに力弱く、みちびく力がない。丸太に乗ってなら河を横切ることができるが、木っぱに乗ってではだめだ。これは、私がなんらかの希望をいだいてウリイへ行くのでないかなどと、あなたが考えないために書いておくことだ。
私は従来どおりだれを咎めることもしない。私は大きな淫蕩を試み、それに力を消耗しもした。けれど私は淫蕩を好まないし、欲しもしなかった。あなたはこのところ私を注意深く見守っていた。私が、あのいっさいを否定する同志たちをさえ、彼らのもつ希望に対する羨望から、煮えくりかえるような思いで眺めていたことをご存知だろうか?しかし、あなたの心配は杞憂だった。あの連中となんの共通点ももたぬ私が、同志になれるはずもなかったのだ。冷やかしのためにも、また憎悪の気持からも、やはりできなかった。それも自分の滑稽さを恐れたからではなく、――私は滑稽さを恐れたりはしない、――私がなおまともな人間の習性をもっていて、嫌悪感を感じたからである。しかし、彼らに対してより大きな憎悪と羨望をもっていたならば、おそらく、私は彼らと行をともにしたことだろう。そのほうがどれほど私にとって楽なことだったか、私がどれほど思い悩んだか、察してほしい!

私はけっして理性を失うことができないし、彼ほどに思想を信ずることもできない。私はそこまで思想に関心をいだくことさえできない。けっして、けっして私はピストル自殺などできはしない!
私は、自分がいっそ自殺すべきである、いやしい虫けらのようにこの地上から自分を掃き捨てるべきであることを知っている。しかし私は自殺がこわい、なぜなら心の広さを示すことを恐れるからだ。あたしはそれがまたしても欺瞞であるだろうこと、無限につづく欺瞞の列の最後の欺瞞であるだろうことを知っている。心の広さを演じて見せるためだけに自己をあざむいて何になろう?私の内部には憤怒と羞恥はけっして存在しえないだろう。したがって、絶望も。

ニコライ・スタヴローギンが首を吊った丈夫な絹紐は、明らかにあらかじめ吟味して用意されていたものらしく、一面にべっとりと石鹸が塗られていた。すべてが覚悟の自殺であること、最後の瞬間まで意識が明晰に保たれていたことを物語っていた。
町の医師たちは、遺体を解剖したうえで、精神錯乱説を完全に、そして強く否定した。

スタヴローギンの告白――チホンのもとにて

「でも、神を信じないで、悪霊だけを信じることができますかね?」スタヴローギンが笑った。
「おお、できますとも、どこでもそんなものです」チホンは目をあげて、にこりとした。
「あなたはそういう信仰でも、完全な無信仰よりはまだしもと認めてくださるでしょうね……」スタヴローギンはからからと笑った。
「それどころか、完全な無神論でさえ、世俗的な無関心よりはましです」一見、屈託もなげなさっぱりした調子でチホンは答えた〔が、それでも用心深く、不安そうな様子で客のほうをうかがっていた〕。
「ほほう、そうですか、〔いや、あなたにはまったく驚かされますね〕」
「完全な無神論者は、〔なんと申しても、やはりなお〕完全な信仰に至る最後の階段に立っておりますからな(その最後の一段を踏みこえるか否かは別として)。ところが無関心な人は、愚かな恐怖心以外には何ももっておらない、いや、それとても、感じやすい人が、時たま感じる程度で」

私の考えでは、この文書は病気のなせるわざ、この人物に取りついた悪霊のなせるわざである。はげしい痛みに苦しんでいる人間が、ほんの一瞬でも苦痛を軽減できる姿勢を見いだそうとして、ベッドの中でもがきまわる姿に、これは似ている。軽減できないまでも、せめて一瞬なりと、以前の苦痛を他の苦痛で置き換えようとするのである。こうなるともう、当然のことであるが、その姿勢の美しさとか合理性とかは問題にもならない。この文書の基本思想は――罰を受けたいという恐ろしいばかりの、いつわらぬ心の欲求であり、十字架を負い、万人の眼前で罰を受けたいという欲求なのである。しかも、この十字架の欲求が生まれたのが、ほかでもない十字架を信じない人間のうちにであったこと。――「これだけでもすでにれっきとした思想ですよ」とは、かつてステパン氏が、もちろん、別の機会にであるが、いみじくも喝破した言葉である。

これまでの生涯にすでに何度かあったことであるが、私は、極度に不名誉な、並はずれて屈辱的で、卑劣で、とくに、滑稽な立場に立たされるたび、きまっていつも、度はずれな怒りと同時に信じられないほどの快感をかきたてられてきた。これは犯罪の瞬間にも、また生命に危険の迫ったときにもそうなのである。かりに私が何か盗みを働くとしたら、私はその盗みの瞬間、自分の卑劣さの底深さを意識することによって、陶酔を感じることだろう。私は卑劣さを愛するのではない(この点、私の理性は完全に全きものとしてあった)、ではなくて、その下劣さを苦しいほど意識する陶酔感が私にはたまらなかったのである。

こんなことを書くのは、この感情がいまだかつて私を全的に征服しつくしたことがなく、常に意識が全きままに残っていたことを、みなに知ってもらいたいためである(しかり、すべてが意識のうえにこそ成り立っていたのだ)。そして、ときに分別を失うほどまで、いや、というより、滅茶苦茶なほどにその感情に支配されることはあったが、われを忘れるということは一度もなかった。それが私の内部で火そのもののようになっていっても、私は同時にそれを完全に支配することができたし、その絶頂で押しとどめることさえできた。もっとも、自分から抑えようと思ったことは一度もない。私は生まれつき獣的な情欲をさずけられ、またっつねにそれをかきたててきはしたが、一生涯、修道僧のように暮すこともできただろうと確信している。私は、その気になれば、常に自分の主人であった。だから、知ってほしいのだが、私は環境とか病気のせいにして、私の犯罪の責任をのがれようとは思わないのである。

すべてが終ったとき、彼女は困惑していた。私は彼女の気をしずめることもしなかったし、もう愛撫することもしなかった。彼女はおずおずとしたほほえみを浮べながら、私を見つめていた。彼女の顔が私には急に愚かしいものに思われた。彼女はすみやかに、一刻ごとに、ますますはげしい当惑にとらえられていった。とうとう彼女は両手で顔を覆い、壁のほうへ顔を向けて片隅に立ち、動かなくなった。私は、彼女がまたさっきのようにおびえだすのを恐れて、無言で家を出た。
考えるのに、彼女にとってはこの出来事のいっさいが、決定的に、死の恐怖さえともなって、かぎりもなく醜悪なことと自覚されたに相違ないようである。彼女にしても、ロシア語独特の卑猥な罵言は、もう襁褓のころから耳にしていたにちがいないし、そのほかの怪しげな話も聞いていたはずなのだが、にもかかわらず私は、彼女がまだなんの理解ももっていなかったと確信している。おそらく、彼女は最後には、自分が想像もつかないような罪を犯し、その罪には死に値するほどの責任がある、つまり、<神さまを殺してしまった>と感じたのであろう。

「犯罪には真に醜いものがある。犯罪は、どのようなものであれ、血が多く流れ、醜悪さが度を加えるにつれて、ますます印象的な、いわば絵画的なものとなる。だが、この世には、秀作さなど通りこして、まことに恥ずべき、不名誉な犯罪がある、あまりにも優雅ならざるとでも言いましょうか……」
チホンは最後までは言わなかった。
「つまり」とスタヴローギンは興奮にかられて引き取った。「あなたは、きたならしい少女の手に接吻したときのぼくの姿が滑稽だと言われるのですね……それならよくわかりますし、だからこそあなたはぼくに絶望されたのですね、醜く、醜悪だと、いや、醜悪というのではなく、恥ずかしく、滑稽なことだと、そしてあなたは考えられるわけです。ぼくがこのすべてを持ちこたえられるはずがないと」
チホンは黙っていた。〔スタヴローギンの顔が青ざめ、ゆがんだようだった。〕

何より大きかったのは、私が恐れていたこと、そして、そのことを私が意識していたことであった。おお、これ以上に不合理な、いやらしいことがあるだろうか!私はそれまで恐怖心をいだいたことがなかったし、この場合を別にすれば、一生涯、それ以前も、それ以後もそうだった。しかし、このときだけは、私は恐怖を感じたし、文字どおりの意味でふるえてさえいた。私はそのことを、屈辱感をおぼえながら、力のかぎり意識していた。もしできるなら、私は自分を殺しただろう。しかし私は、自分が死にも値しないと感じた。もっとも、私が自殺しなかったのはそんなことのためではなく、恐ろしかったからである。恐怖心から自殺する者もあるが、恐怖心から生きながらえる者もある。人間、自殺する決心がにぶりはじめると、そのこと自体が考えられなくなってくるものだ。そればかりでなく、その晩、自分のアパートで、私は彼女に対してたまらない憎悪を感じ、殺してしまおうと決意したほどだった。翌朝、私はそのつもりでゴロホワヤ街へ出かけていった。私はその道々、自分が罵言を浴びせながら、彼女を殺すさまを想像していた。何より私の憎悪がかきたてられるのは、彼女の微笑を思い出すときであった。彼女が何かを想像しながら私の首につびついてきたことに対して、私の胸には軽蔑感をどうにもならない嫌悪感が生れた。しかし、フォンタンカ河まで来て、私は気分が悪くなった。そのうえ私はある新しい恐ろしい考えが、それを意識していたからこそ恐ろしいのだが、胸にうごめくのを感じた。戻ってくると、私は悪寒にがたがたふるえながら横になった。けれど、恐怖はもう最高の程度にまで達して、もう少女を憎悪することもなくなってしまった。私はもう殺そうとは思わなかった。そしてこれこそが、フォンタンカで意識した新しい考えであったのだ。そのとき、生れてはじめて、私は、最高度にまで達した恐怖が、完全に憎悪を、いや、侮辱者に対する復讐心をさえ追いのけてしまうということを感じた。

「自分のことを見るがよい、とあなたは言われるが、あなた自身は、その人たちをどのような目でごらんになるのかな?あなたはその人たちの憎悪を期待し、それにまさる憎悪で答えようとしておられる。あなたの告白のある部分は文章の力で強められている。あなたはご自分の心理にいわばうっとりされて、実際にはあなたのうちに存在しない非情さや無恥で読む者を驚かせようとしておられる。その反面、邪悪な情欲や怠惰の習慣があなたを実際に非情な、愚鈍な人間にしていることもある」
「愚鈍は悪徳にあらず」スタヴローギンは苦笑して、顔色を青くした。
「ときには悪徳です」チホンはひたむきに、熱っぽくつづけた。「戸口の幽霊によって致命的な傷を受け、そのために苦しんでおられながら、あなたのこの文書では、あなたの最大の犯罪が何であり、あなたがその裁きを求めておられる人々に対して何を最も恥じなければならないのか、ご自分でもよくわかっておられないらしい。あなたによって犯された暴行の非情さをか、それとも、その際に現われた臆病さをか?ある個所では、あなたは読む者に向かって、少女の脅すしぐさがもはやあなたにとって《滑稽》ではなく、たまらなく恐ろしいものであったとさえ、確言しようと急いでおられる。だが、してみると、それはほんの一瞬にせよ、あなたにとって《滑稽》だったのですかな?そのとおり、滑稽だったのですな、私は証言してもよろしい」
チホンは口をつぐんだ。彼の話しぶりには、もう自制の色がまったく見えなかった。