ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』

ヒットラーとのこの和解は、回帰というものが存在しないということに本質的な基礎が置かれている世界の、深い道徳的な倒錯を明らかにしている。なぜならばこの世界ではすべてのことがあらかじめ容認され、あらゆることがシニカルに許されているからである。

でもこれが恋であろうか?彼女のそばで死にたいという感情は明らかに常軌を逸していた。というのも彼女と会ったのはそのとき人生で二度目であったからである!これは心の奥底で自分に恋をする能力がないと意識しながら、それだからこそ、自ら彼女を愛しているかのように見せかける人間の、単なるヒステリーではなかったのであろうか。その際彼の意識下はひどく臆病で、自分の演ずるコメディーに、彼の人生に登場してくるチャンスがことんどないような辺鄙な町に暮らしていたこのかわいそうなウエートレスをまさに選んだのである!
彼は中庭ごしに汚い壁を見ながら、これがヒステリーなのか恋なのか分からないということを意識していた。
本当に男らしい男ならすぐ対処できるようなこのような状況で、彼が逡巡し、かつて経験したことのない(彼女のベッドにひざまずき、彼女の死に耐えられないと思った)もっとも美しい瞬間に、彼女の持つ意味を認めていないことを申しわけないと思った。
自分に腹を立てているうちに、何をしたらいいのか分からなくなるのは、まったく自然なことだと思いあたった。
人間というものは、ただ一度の人生を送るもので、それ以前のいくつもの人生と比べることもできなければ、それ以後の人生を訂正するわけにもいかないから、何を望んだらいいのかけっして知りえないのである。

トマーシュは当時、メタファーが危険なものであることに気がつかなかった。メタファーはもてあそんではいけないものである。恋は一つのメタファーから生まれうるものなのである。

この「脱いで」ということばをサビナはトマーシュから何度もきかされて、心の中にこびりついていた。それはトマーシュの命令であったが、今はそれをトマーシュの恋人がトマーシュの妻に向かっていった。二人の女を同じ魔力的な命令文で結びつけたのである。これがトマーシュの女たちとの罪のない会話を、エロティックな状況へと思いがけず変化させる方法なのであった。愛撫することも、触ることも、お世辞をいうことも、懇願することもせず、静かな声で、だがきっぱりと権威を持って、思いがけないときに急に、一歩退いた醒めた態度で命令を発するのだった。けっしてこの瞬間には女たちに触れなかった。テレザに向かってもしばしばまったく同じ調子で「脱いで!」と、いい、静かな声でいおうと、ただささやくだけであろうと、それは命令であり、彼女はそのことばをきくだけでいつも興奮を感じた。今同じことばを耳にし、それに従おうという気持ちはおそらくよりいっそう大きいものがあった。なぜならば誰か見知らぬ者のいうことをきくというのは特別な狂気であり、この場合の狂気は、命令が男からなされるのではなく、女からなされただけにさらにより美しいものであるからだ。

快感が自分の身体に広がっていくのを感ずるとき、フランツは自分自身が分解し、自らの闇の無限の中へととけ込んでいって、無限になる。しかし、男が自ら闇の中で大きくなっていくとき、自らの外の姿では小さくなっていく。目を閉じた男は男の残骸にすぎない。その姿はサビナにとって不愉快なので、彼女はフランツのほうを見ようとせず、そのため同じように目を閉ざす。しかしその闇はサビナにとっては無限を意味するのではなく、単に見えることへの不同意、見えるものの否定、見ることの拒否を意味するのである。

夕暮れになると、墓地は火のともされた小さなろうそくでいっぱいになるので、まるで死者が子供の舞踏会を催しているように見える。そう、子供の舞踏会、なぜなら死者は子供のように罪がないからである。たとえ人生が残酷さに満ちていたとしても、墓地にはいつも平和があった。戦争中も、ヒットラーの時代も、スターリン時代も、ありとあらゆる占領のときも、サビナは悲しくなったとき、車に乗り、プラハを遠く離れて、好きだった田舎の墓地のどれかを歩きまわった。青い丘を背景としたそれらの墓地はまるで子守歌のように美しかった。

その教会でサビナが思いがけず出会ったのは神ではなく、美であった。その際に、その教会とその連祷それ自体が美しいのではなく、何日ものあいだ歌の騒音の中で過ごしていた青少年勤労奉仕の建設現場と関連していることはよく分かっていた。ミサは裏切られた世界のように急にそして密かに彼女にあらわれたがゆえに美しいものであった。
そのとき以来、美とは裏切られた世界だということが分かった。われわれが美に出会えるのは、迫害者たちがどこかに誤って美を忘れたそのときだけなのである。

「あんたがそんな力持ちだと知って嬉しいわ」
しかし、心の奥深くではさらに次のようにつけ加えた。フランツは強いけど、あの人の力はただ外側に向かっている。あの人が好きな人たち、一緒に生活している人たちが相手だと弱くなる。フランツの弱さは善良さと呼ばれている。フランツはサビナに一度も命令することはないであろう。かつてトマーシュはサビナに床に鏡を置き、その上を裸で歩くように命じたが、そのような命令をすることはないであろう。彼が色好みでないのではなく、それを命令する強さに欠けている。世の中には、ただ暴力によってのみ実現することのできるものがある。肉体的な愛は暴力なしには考えられないのである。

われわれの良いしつけが警察の味方になるというのは悲喜劇的である。われわれは嘘がつけない。「本当のことをいいなさい!」という、お母さんやお父さんがわれわれにたたき込んだ命令法は、われわれを尋問する警官の前でさえも自分の嘘を恥じるよう自動的に作用するのである。われわれにとっては面と向かって嘘をいう(これがわれわれのできる唯一のことだが)より、その男と口論し、怒らせる(これは全然意味のないことだが)ほうがより簡単である。

ヨーロッパのすべての信仰の背後には、宗教的であれ、政治的であれ、創世記の第一章があり、世界は正しく創造され、存在は善であり、従って増えるのは正しいという考えが出てくる。われわれはこの基本的な信仰を存在との絶対的同意と呼ぼう。
つい最近まで糞という語が本の中で××で書かれていたとしても、これは道徳的な理由からではない。糞が不道徳であるなどと、まさか主張なさりたくはないであろう!糞との不同意は形而上的なものである。排便の瞬間は創造の受け入れがたさを日々証明している。あれかこれかで、糞が受け入れられるか(もしそうなら便所を閉めるのを止めよう!)われわれは受け入れがたい方法で創造されているか、二つに一つである。