ハーマン・メルヴィル『白鯨』

俺の名はイシミールと呼んでもらおう。数年前に――さよう、なん年前か、正確なことはどうでもいいのだが――財布の中はほとんどからっぽだったし、それに陸ではもうこれと言って興味をひかれるようなこともなかったので、すこし船を乗りまわして、水の世界でも見物してやろうと思った。これが、憂鬱をはらいのけて血液の循環をよくする、俺の流儀なのだ。口のあたりが妙にこわばってくるように感じたり、魂の中がじめじめとそぼふる十一月になったり、われ知らず棺桶屋の前に足を止めていたり、葬式の列の後からついて行く自分に気がついたり、とりわけ、心気症が嵩じて、やり切れなくなり、よっぽど道義心をふるいおこさないと、故意に街路へとび出して行って、一定の方式に従って通行人の帽子をたたき落さずにいられなくなるような時には、――俺は一刻も早く海にでかけるべきだと考えるのだ。こいつが、俺にはピストルと弾丸の代りをしてくれるのだ。カトーは哲学者めいた御託をならべて、自分の剣の上に身を横たえなすったが、俺は静かに船に乗りこむのだ。なにもびっくりするほどのことじゃない。誰にしろ、この気持におぼえのあるものなら、いつかは多かれ少なかれ、大洋に対して俺と似たりよったりの気持ちをいだくのだから。

金を払うということは、二人の楽園の泥棒が俺たちにのこした苦痛のうちで、いちばんやりきれないものだ。ところで、払われるということは――天下にこれに匹敵することがまたとあろうか?いんぎんにはりきって金を受けとるなんてことは、考えてみれば実に妙な話だ、俺たちは、金がすべての禍のもとで、金のあるものは天国にはいれないってことを、よくよく承知しているくせに。ああ!俺たちはなんとまあうれしそうに地獄に身をゆだねることだろう!

無智が恐怖の親なんだ。

だが、うんと笑うってことは、大そう結構なことだが、結構なだけに、なかなかお目にかかれないので、困るのだ。だから、もしわが身が他人にお笑い草を提供するようなところをもっているなら、よろしく尻ごみなぞしないで、喜んで身ぐるみその方面に供給するがいい。身辺にお笑い草を豊富にたくわえている人間は、君が思っている以上に大したやつなのだ。

これほど意味深いものがあろうか?――なぜなら、説教台はいつでもこの地球の先端であり、万事はそのあとに従うのだ、説教台は世界の先頭に立って進んでいるのだ。神の短気な怒りの嵐が真先に発見されるのは、そこからなのだ。船首は真先に神の怒りに触れなければならないのだ。順風か逆風かの神に、どうぞ追手をと真先に祈願するのも、そこからだ。そうだ、世界はすでに船出したが、まだ航海はおわっていないのだ。説教台はその船首なのだ。

神がわれわれに為せとお命じになることは、すべてわれわれにとっては実行困難なことばかりなのだ――このことを忘れないように――だからこそ、神はわれわれを説得んさろうとするよりも、むしろ命令なさる場合の方が多いのである。そして、もしわれわれが神に従えば、おのれに逆らわねばならず、このおのれに逆らうというところに、そもそも神に従うことの困難さがあるんである。

俺は身内の奇妙な感じに気がつきはじめた。俺は心のなごむのを感じた。俺の傷ついた心と狂った手とは、もう豺狼のごとき世間に歯むかうことをやめた。この野蛮人が俺の心を慰めて、この世をとり戻してくれたんだ。奴があそこに腰かけていると、そのそっけなさそのものが、文明の偽善も口当たりのいい欺瞞もひそんでいない一つの性質を物語っているのだ。奴は野蛮だ。天下の奇観にちがいない。だが俺は、不思議にもそいつに惹きつけられている自分に気がついたのだ。しかも、ほかの人ならいやだと思うだろうそこのところが、俺をひきつける磁力だったのだ。一つ異教徒の友をもって見てやれ、と俺は考えた、キリスト教徒の御親切は中味のからっぽなおていさいだったとわかったのだから。俺は自分の長椅子を奴の方へ近よせながら、その間もなんとかして奴と話そうと思って、親しげな身振りや思わせぶりをして見せた。はじめはこういうこっちの言い寄りに奴はてんで気をとめなかったが、まもなく俺が昨夜の親切のことに触れると、奴は、今夜もいっしょに寝るのかと、どうにか重い口を開いた。俺は、うんと言ってやった。すると奴はうれしそうにし、少々得意そうに見えた。

どういうものか、友達同士が腹をわって打明話ををしあうには、寝床の中ほどいいところはない。夫婦が魂の底まで見せあうのは、寝床の中だという話だ。爺さん婆さんは朝のくるまでも、寝床の中で昔話に花を咲かせることがあるとか。しからば、俺とクィーケッグとも、心の新婚旅行で寝ていたのだ――うちとけた愛しあう夫婦として。

この男の眼の前では、無精と怠惰は消滅したのだ。彼の体そのものが、その功利的性格をそのまま具現していたのだ。高い痩せた体には一片の贅肉もなく、顎には余計な顎鬚もなく、ただやわらかい経済的な毛が、つばの広い帽子のすり切れたけばのように生えているばかりだ。

港は情け深い。港には安全と慰安と暖炉の床石と夕飯と暖かい毛布と友と、いずれは死ぬ俺たち人間の心を暖めるものがなんでもある。ところがあの大風の中では、港も陸も、船にはこのうえもなく恐ろしい危険なのだ。あらゆるもてなしから逃げださねばならぬ。ちょっと陸の端が竜骨をかすっただけでも、船の全身にはふるえがつたわる。ありたけの帆を張りつめて、根かぎり陸をはなれようとし、せっかく故郷に吹き届けようとする風にさからって、またも行けども陸なき怒涛さかまく海を求めて、よるべもなく隠れ家を求めて危険の中へとびこんで行く。たった一人の友が、遺恨骨髄に徹する敵!

こうしてしょっちゅう煙草を喫っていることが、すくなくとも彼の一風変った気質の一つの原因にちがいない、と俺は言いたい。というのは、誰でも知ってることだが、この地上の空気は、陸上であろうと海上であろうと、それを吐きだしながら死んで行った無数の人間の言うに言われぬ悲惨から恐るべき毒をうけているんだ。そこでコレラがはやると、樟脳をつけたハンアケチを口にあてて歩く連中がいるように、スタッブの煙草もあらゆる人間の苦難に対して、言わば消毒の働きをしていたのかもしれないのだ。

どういうわけか知らぬが、島育ちは最上の捕鯨者になるらしいんだ。「ピーコッド」に乗ってるのもほとんど全部が島育ちで、おまけに孤立者ときてるんだが、それは人間共存の大陸を認めないで、それぞれの孤立者が自分だけの離れ小島に住んでいるからだ。だが孤立者どもが一つの竜骨に沿うて結合された今、この集団の有様はどうだ!大洋のあらゆる島々、地球のあらゆる隅々から集まってきたアナカーシス・クルーツのような代表者は老エーハッブといっしょに「ピーコッド」に乗りこんで、行けば帰るもののすくない神の法廷にこの世の苦情をぶちまけに行くのだ。黒ん坊のちびピップは――帰ってこない――なんで帰ってくるものか!一足先に行ったんだ。あわれなアラバマの小僧!無気味な「ピーコッド」の前甲板水夫部屋で手太鼓を打っているところをまもなくお目にかけるが、それはやがて迎えがきて、天上の大きな高級船員室で天使たちと共に打てと命じられて、栄光の中に手太鼓を打つその永遠の時の序曲を奏しているようなものだ。地上では卑怯者と呼ばれても、天国では英雄ともてはやされるのだ!

年をとると、どうしても目覚めがちになるものだが、生とあまり長くいっしょにいると、ともすれば死に近いものとは縁がうすくなるとでもいうのであろうか。海上の指揮者の中でも、顎鬚の白くなった連中は、いちばんよく寝床をぬけだして、夜の闇につつまれた甲板を見まわるのだ。

しばらくの間、彼の口からせわしくひっきりなしにもくもくと吐き出される煙は、向い風を受けて、もう一度彼の顔に吹きもどされていた。「どうしたんだろう」とうとうパイプを口からはなして、独語した、「この煙草ももうわしを慰めてはくれぬ。おお、パイプよ、貴様の魅力が消えたとすれば、これからのわしはどんなにつらいことだろう!今もわしは、楽しむどころか、知らぬが仏、実は苦しんでいたのじゃ――そうだ、それとは知らず、しじゅう風上に向かって吹かしとったんじゃ。風に向かって、こんないせわしなく煙を吐くとは、断末魔の鯨よろしく、苦痛のこいつは、やんわりした白い髪の毛の間に、やんわりした白い煙をもつれさせてこそ意味もあるが、俺のみたいにもじゃもじゃの鉄色の髪の毛には向かぬのじゃ。もう煙草はやめた――」
火のついたままのパイプを海に投げた。火が波の間でシュッと音を立て、その瞬間、船は沈んで行くパイプの泡を残して矢のように進んだ。帽子の縁をおとしたエーハッブは、よろめきながら甲板を歩いた。

『なんでえ』と俺は考えてるんだ。『なにを騒ぐことがあるんだ?本物の脚じゃあるまいし、たかが義足じゃねえか』ってね。生きたコツンと死んだコツンじゃ大したちがいだからな。だから見ろ、フラスク、手でなぐられたのは杖でやられたより五十倍も我慢がならねえから。

とかくへんちきりんなことには、笑うのがいちばんかしこくて楽な返答だからよ。どんなことになろうと、かならず一つの慰みは残る――つまり、なにごとも宿命と思えば、腹もたたんというわけさ。

どうしてこの連中が、老人の憤激に気前よく調子をあわせたのか――いかなる天魔に魅せられて、時には彼と同じような憎悪に駆りたてられ、「白鯨」を自分たちの不倶戴天の敵と見なすようになったのか――いったい「白鯨」は彼等にとって何者だったのか、なぜまた彼等は、白鯨こそ人生の海を泳ぐ大悪魔にちがいないと、無意識の理智で漠然とさとったのか――すべてこういったことを説明するには、イシミールの到底達しえぬ深いところへもぐって行かねばならぬであろう。俺たちはみなの体内で働いている地下鉱夫が堅坑ををどっちへ掘って行くかは、彼の鶴嘴のたえず移動する陰にこもった音では判断しかねるのだ。抗しえぬ腕にぐんぐんひかれていると感じぬものがあろうか?七十四門艦にひかれる軽舟が、じっとしていられるだろうか?俺などは、その時次第その場まかせにしたんだ。だが、こうして鯨にでくわそうとひた走りに走っているうちは、あの畜生はただ極悪非道なやつとしか思えぬのだった。

そうだ、偶然と自由意志と必然――この三つはけっして矛盾するものじゃなく、互いに織り交ざって協力して働くのだ、と俺は考えた。必然という真直な経糸は、けっして究局の道程から逸脱することなく――その交互の振動の一つ一つは、実際ひたすらそこを目指しているのだ。しかも自由意志は与えられた糸の間におのれの梭をせっせと差しこむ自由を保留している。ところで偶然は、必然の真直な糸の範囲内に活動を限定され、横からは自由意志によって運動を指導されるが、こうして両者に規定されつつ、その代りまた両者を支配し、事件の最後の形を打ちだすのだ。

われわれが人生とよぶこの不思議なごちゃごちゃした事柄には、時と場合で妙なことがあるもので、そういう時人は、この宇宙全体を一つの大きな悪戯のように思い、しかもその悪戯の意味ははっきり呑みこめぬながらも、その悪戯で迷惑するのは他の人ではなく自分だと思いこんでしまう。だが、なにもがっかりすることもなければ、かれこれ言うほどのこともないように思われる。彼は、あらゆる事件、あらゆる信条と信念と確信、眼に見えるまたは見えぬ困難なこと、それらがどんなにごつごつしていようとも、ぐっと鵜呑みにしてしまう、ちょうど胃の腑の強い駝鳥が、弾丸や燧石をごくりと呑みこむように。そしてささいな困難や心配ごと、たちまち身にふりかかろうとする災難の予想、生命の危険、それから死そのものでさえ、彼にはただ眼に見えるえたいの知れぬ悪戯老爺が何くわぬ顔で悪気なしにぴしゃりとやったが、面白ずくに横っ腹をどやしたかぐらいにしか感じない。こういう妙な気まぐれは、人が苦難のどん底におちた時だけにやってくるものだが、それも真剣な気持の時にやってくるので、今し方までなら、とても重大に思えたようなことでも、今は宇宙全体の悪戯のほんの一部にすぎぬように思われるのだ。こういう自由で呑気な温和な無頼漢哲学を生み出すには、捕鯨の危険にしくものはない。そこで俺もピーコッド号の全航海とその目的たる巨大な白鯨とを、そういうふうにみなしたのだ。

「俺から逃げていくのか、貴様ら?」水中をのぞきこみながら、エーハッブはつぶやいた。大して意味のある言葉とも思えないが、調子は、この気違い老人が今までに示したことのない深い絶望の悲哀をつたえた。だが今度は、船脚をおくらすために船を風上に向けていた舵手の方を向いて、例の獅子吼がはじまった。――「上手舵!風を受けて世界一周だ!」
世界一周!その響には誇らしい感情をひきおこすに足るものがあったが、しかしその世界周航の行きつく先はどこなのであろう?ただ無数の危険をおかして、出発点にもどるということ、安住するがままに俺たちが見棄ててきた人々が、いつも俺たちの前方にあるということだ。
もしこの世界が涯なき平面であり、東に帆走するにつれて、永久に新しい土地へたどりつき、つぎつぎにサイクラデス群島もソロモン群島も及ばぬうるわしく珍しい景色を発見するとでもいうのなら、航海にも楽しみがあるだろう。だが、俺たちの夢想する遥かな数々の神秘を追い、あるいは、いつかしらあらゆる人間の心の前を泳ぐあの悪魔の幻を憂き目を見ながら追いかけて、この丸い地球をぐるりと回ったところで、そいつらが誘っていく先は、どうせ荒れはてた迷路であり、さもなくば、途中で破滅しておいてきぼりをくうのがおちではないか。

われわれが記録で読む最初の小舟は、ポルトガル人ののような烈しい復讐心をもって全世界を一呑みにし、一人の寡婦をも生き残らせなかったあの洪水の海に浮かんでいた。その大洋は今でもさかまいている。その大洋は去年もいくつかの難破船を沈めた。ああ、愚かな人間どもよ、ノアの洪水はまだおさまってはおらぬ。今もうるわしき世界の三分の二をおおうているのだ。
海上の奇蹟が陸上では奇蹟でないというのは、海と陸とのどういう相違からくるのであろうか?モーゼに逆らったコラと一味の者の足の下で、生ける大地が口を開いて彼等を永久に呑んだ時、ヘブライ人たちは超自然的恐怖におそわれたが、今日だって、まさしく同じように生ける大海が船や船員たちを呑みこんでしまわぬ日は、一日とてない。
だが海は、それに縁のない人間に仇敵であるばかりでなく、自ら腹を痛めた子たちに対しても悪魔であり、自分のお客たちを殺害したペルシャ人よりもよくない。なにしろ自分で産んだ生き物だって容赦しないのだから。密林の中で自分の仔たちをぽんと投げ上げて圧しつぶす獰猛な牝虎のように、海はどんなに強い鯨でも岩にぶつけて、そこに難破船の残骸と枕をならべさせる。海自体のものでなければ、どんな情け心もどんな力も、海を制御することはない。乗り手が落ちて狂い走る戦馬の如く、息を切らし鼻を鳴らしながら、主なき大洋は地球を蹂躙する。
海の狡猾さを考えてみよ。最もおそるべき生物は大ていは姿を見せず水底をすべり、いとも美しい浅緑の下に陰険に身をひそめる。またあまたの鮫類の優美な盛装の姿のように、その残忍酷薄な種族の多くは、悪魔的な光輝と美を身につけているのだ。さらにまた、海の普遍的食人主義を考えてみよ。海では生きとし生けるものどもが、互いに相食み、この世のはじめから永遠の闘争をつづけているのだ。
これらすべてのことを考えた後で、この緑なす優しいいとも従順な大地に眼を向け、海と陸との両方を考えあわせてみよ。君は君自身の中に奇妙に類似するものを見出さないか?まことに、このおそろしい大洋が緑なす陸地をかこんでいるように、人間の魂のうちには平和と歓喜にみちた一個のタヒーティー島が横たわっているのだが、なかばしか知られておらぬ生命のあらゆる恐怖がそれをとりかこんでいるのだ。神よ、君をまもり給え!その島から飛び出してはいけない、二度と帰ることはできぬから!

俺はその時自分の立場について、あまり熱心に形而上学的な思いに耽っていたもんだから、彼の動作を熱心に見守っているうちに、俺自身の個性がいまや二人の株式会社のなかへ没入したこと、俺の自由意志が致命傷を受けたこと、他人の間違いや不幸がなんの罪もない俺を、故なき災難と死につき落すかもしれないこと、などがハッキリ認められるような気がした。それ故俺は、ここに神の摂理における空位期間ともいうべきものがあるのだと合点した。なぜといって、人によって手心を加えぬ公平な天の配剤が、まさかこんなひどい不正をゆるしておくはずはないではないか。

これと同じ理屈で、諸君が片方の側にロックの頭を引っぱりこめば、そっちへ傾くし、今度は反対側にカントの頭を引っぱりこめば、もとの位置にもどるのだ。

人間の眼は、明るいところで開いている限りは、視る作用は自分の自由にならぬ。すなわち、眼の前にあるものはなんでも、機械的に見ざるを得ないのだ。

ところで、もしタテシゴーがあの頭のなかで最後を遂げていたとすれば、それこそまことに派手な最後だったのだが。芳しい鯨蝋のうちでも最も純白な最も美味な油の中で窒息し、鯨の秘密の内陣、聖の聖なるところを棺とし霊柩車とし墓所として葬られるのだ。さっそく思い出せるこれよりも甘美なたった一つの最後があるが、それは、あるオハイオ州の蜂蜜採りの甘美な死だ。その男はうつろな木の叉で蜜を探していたが、あんまり蜜がどっさりありすぎて、こごみすぎた拍子に、蜜が彼を吸いこんでしまい、死んでそのまま木乃伊にされたのである。同じように、プラトンの蜜頭のなかへ墜ちこんで、そこで甘美な最期を遂げた人々が、古来いく人あったと、諸君は思うか?

万人は懐疑し、多数は否定する。しかし、懐疑にもあれ、否定にもあれ、それとともどもに直観をもつものはきわめて稀だ。地上的なあらゆるものへの懐疑、天上的な何ものかに対する直観、この二者の結合からは、信教者も背教者も生れず、人はそれによって二者を公正な眼で見ることを知るのである。

海は、彼の有限の肉体を、なぶりものにしながら保存したが、彼の無限の霊魂をば溺死させた。いや完全に溺死させたとはいえない。むしろ生きながらおどろくべく深い底に引きこまれ、そこでは彼の力ない眼の前には、まだ歪曲を知らぬ始原の世界の、ふしぎな物影が、あちらこちらへと流れており、そこでは吝嗇な海神「叡智」は、その無尽の庫を開きしめし、ピップは歓びにわき立ち、哀れも知らぬ、つねに若やぐ永遠性のさ中に、神性に満たされた数知れぬ珊瑚虫の群が水の蒼穹のなかに巨大な円体を持ち上げているのを見た。彼は神の足が織機の踏台におかれているのを見て、そのことをいったので、船のものは彼を気ちがいといった。さて人間の狂気は天上の知恵であり、あらゆる人間的な理性から迷い出ることによっては人はついに、それは理性に取っては荒唐の狂気と見えようが、その天上の思想に到達し、よろこびにつけ悲しみにつけ、神さながらに自在無碍の心情となるのである。

絞り、絞り、絞りながら朝はすぎた。自分がほとんど溶けてしまうまでその抹香を絞った。何か怪しい狂気におそわれるまで抹香を絞った。ふと気がついてもみれば、思わず知らず同輩の手を柔らかな球体とまりがえて、絞りつづけていたりした。この作業は、いいようもなく豊かな、いとおしい、親密な、愛にあふれた感情を生み出すのであったから、ついに私は、絶間なく彼らの手を絞り、その眸に感情的に見入りながら、胸のうちではつぶやく――おお、わが愛する同胞たちよ、われわれはどうしていつまでも、苛酷な社会感情を抱いたり、何かにつけてすぐ不機嫌になったりそねんだりしなければならないのだろうか。さあ、みんなでたがいに手を絞り合おう、いや、みんなで自分を絞ってしまってたがいに溶け合おう、世界中のものが、みんな自分を絞ってしまってたがいに溶け合おう、世界中のものが、みんな自分を絞ってしまって、乳のごとく抹香のごとき友愛の中に溶け入ろうではないか。
永遠にあの抹香を絞りつづけていることができたならば!というのは、その後私がながながと繰りかえされた経験を経て知ったことだが、人間というものは、あらゆる物事において、おのれの到達しうる幸福の観念を実質的に低下させてゆかねばならない。少なくとも変化させなければならない。そしてそれは決して知恵や想像の中に置かれるべきではなく、妻とか心臓とか寝床とか食卓とか鞍とか炉辺とか田園とかに置かれるべきである。さて私は、そういうことを知悉したのであるから、永遠に抹香を絞りつづけてゆきたい心をもつ。深夜の幻の想念の中に、私は、楽園の天使たちが、めいめいにその手を鯨蝋の瓶に突き入れながら、長列をつくっているのを見たことがある。

「山の峰やら塔やら、そのほか何でも巨きくて高いものには、つねに自我の強さが何となしにある。見ろ――三つの峰は、魔王みたいにふんぞり返っておるわ。がっしとした塔、それがエイハブなのだ。火を噴く山、それがエイハブだ。豪胆な不敵な勝ち誇る鳥か、それもまたエイハブだ。みなエイハブだ。それからこの円い黄金は、真円の地球の肖像で、それが魔法使の鏡みたいに、この人間あの人間の別なしに、それぞれそのものの神秘な自我を映し出すのだ。世界に対して、神秘を教えしめしてくれなどと頼むやつは、大きな骨折りをしてちょっぴり得をするだけだ。世界は自己を解き明かすことはできぬからだ。だが、この金貨の太陽は、かがやかしい顔をしとるように、わしには見える。だが見ろ!彼は二分点、嵐のしるしのところへ飛びこむぞ。しかも、六月前に白羊宮で、前の二分点から這い出したばかりではないか。嵐から嵐へ!それもよかろうて。陣痛に生み出される人間は、苦しみに生き、痛みに死ぬるのが、ふさわしい。それもよかろうて。ここに振りかかる悲惨をがっしり受けとめるものがおるぞ。それもよかろうて」

こら金貨、お前のその十二宮図はだな、人間の一生を始めから終りまで書いとるんだ。おれは、そいつをぴったり読んでみせるぞ。さあこい、暦!まず白羊宮だな――助平犬め、こいつが、おれたちを生む。それから金牛宮か――こいつが、おれたちを、先ずどやしつけやがる。それから双子宮か――つまり善と悪だな。おれたちは善の方へゆこうとはするよ。だが見ろ!巨蟹宮の業病がきて、おれたちを引きずりもどす。それで善から離れてゆけば、獅子宮が吼えて、道で待っていやがって――おれたちを、がちがちと噛んで、どすんと前肢でなぐる。おれたちは逃げる。やあ処女宮!おれたちの初恋だ。結婚して、いつまで幸福になるつもりだった。そこへ天秤宮がひょいと顔を出して――幸福をはかってみたら、目方が足りなかったんで、おれたちは悲観してしまっていたら、何てことだ!天蠍宮がきやがって、尻を刺しやがって、俺たちは飛び上がった。それから傷をなおしていたらば、ぶんぶんと四方八方から矢が飛んできた。射手宮が遊んでいやがったんだ。その矢を抜いてやると、おや、どすんときたのは磨羯宮が、全速力で突っかかってきて、おれたちはでんぐり返されたんだ。すると宝瓶宮が水をいっぱいぶっかけやがって、おれたちは溺れて、双魚宮に巻きこまれて、眠ってしまうんだ。まあ、これが天に書いてある説教だが、太陽ときたら、毎年それをくぐっては、いきいきにこにこして、また出てくる。

「いや、いや、――水は使わぬ。正真正銘の死の焼を入れるのじゃ。おーい、おーい、タシュテゴ、クィークェグ、ダグー!邪教めらよ。どうじゃ、お前ら、このわしに、この刃をびったり濡らすだけ血をくれぬか」刃を高く差し上げた。黒人の群は、よろしい、とうなずいた。邪教徒の肉が三度切りつけられ、かくて白鯨用の刃の焼は入れられた。
「主の名に於てに非ずして、悪魔の名に於て汝に洗礼す!」焼け爛れた邪剣が洗礼の血を呑みほしたとき、エイハブは、恍惚として、そのように絶叫した。

エイハブは、昇降口を出て、ゆっくりと甲板を横切って、舷側から下をのぞいた。彼が海の深さを見きわめようと眼を凝らすにつれて、彼の影は水の中に深く深くと沈みこんでゆくのだった。しかし、魅せられた空中の美しい薫染が、その時しばらくは、彼の魂の中の毒物をついに追いはらうように思われた。その歓びにみちた、明るい大気、愛らしい空が、ついに彼を愛撫し、世界――ながく残忍で、彼を寄せつけなかった継母――は、いまや慈みの腕を伸べて、かたくなな彼の頸に巻き、いかに我儘で過ち多い人間であろうとも、彼女にはそれを救い祝福する心があるのだというように、彼の上に嬉し涙をそそいでいた。垂れた帽子のかげで、エイハブは海に向けて涙をこぼしたが、渺茫たる太平洋も、その小さな一滴にまさる富を含んではいなかったのである。

「私のメアリ!私のメアリが見える!彼女は約束した、――毎朝坊やをつれて丘にのぼって、父さんの船を最初に見つけます、と。ああ、もうたくさんだ、もうよろしい!われわれにはナンタケットに向かおう。さあ、船長、針路を決めて、帰るのですね。見える、見える!窓ぶちの坊やの顔、丘のうえの坊やの手!」
しかしエイハブは眼をそむけ、病んだ果樹のように慄え、最後の黒ずんだ実を土に落とした。
「これは何ものか。いかなる、名状しがたい、測りがたい、この世ならぬものが、いかなる欺瞞の見えざる主人が、暴虐残忍の皇帝が、わしに命令して、わしをあらゆる本然の愛と情とに背かせ、この身を絶間なく突っこみ押しこみぶつからせてゆき、わしの正しい本来の心では夢にも思いがけぬことに、愚かにもいそいそと立ち向かわせるのか。エイハブは、はたしてエイハブであるのか。この腕をいま挙げるものは、わしか、神か、それとも何ものか。しかし、もし雄偉な太陽も自ら動くのではなく、天の使小僧にすぎぬとすれば、また、ただ一つの星とても、何かの見えざる力によらずしては廻転せぬとすれば、このちっぽけな一つの頭脳が思索するのも、ただ神がその鼓動をさせ、その思索をさせるからのみであり、生をいとなむのは、わしではなく神であろう。神かけていうが、われわれはこの世においては、あそこにある揚錨機みたいに、くるくると廻され、運命が梃子なのだ。そして見よ、悠遠に微笑むあの空と、測り知れぬこの海とを。見よ、あの魚、めばちを。だれがあいつに、あの飛魚を追って咬むという料簡をおこさせるのか。人殺しのゆく先はどこか。裁くべきものが法廷に引き出されるとき、劫罰を受けるのはだれか。それにしても、穏やかな穏やかな風よ、穏やかにかがよう空よ。空気は遠い牧場から吹き流れてくるように匂っている。スターバックよ、どこかアンデスの山の斜面のあたりで乾草をつくっておって、草刈りらは、刈り立ての草の中に眠っておるのでもあろうか。眠りか。なるほど、われわれはいかに働こうとも、みなついには野辺に眠るのだ。眠りか。なるほど、投げすてられた去年の大鎌が、刈りさしの草かげに横たわるように、青々たる中に錆びてゆくのか。――スターバック!」
だが、一等運転士は、絶望のあまり屍のように蒼白になって、そっと去っていた。

おだやかな歓喜が――疾駆そのものの中にある強く和やかな安定感が、この滑走する鯨に満ちていた。手篭めにしたオイロパをおのれの麗しい角にしがみつかせたまま泳ぎ去る白い牡牛なるジュピタ神――娘に熱く注がれるその美しい流し目、クレタの島の婚筵の場にまっしぐらに小波をわけてゆくその魅するように滑らかな疾さ、いな、そのジュピタ、あの偉大荘厳の至高神ジュピタすらも、神々しくも浪をかき分けてゆくこの輝かしい大白鯨を凌ぐものでない。
やわらかな双の脇腹――そこからただちに分れ起って、ひと度び離れれば涯しなくひろがってゆくうねりと相俟って、――そのまばゆい両脇から、鯨は媚惑を流すのである。猟人仲間のあるものらが、この静容にわけしらず恍惚とまやかされて、攻め寄ろうとたくらんだが、やがてその平静は奔流の仮面にすぎぬと、死を以て発見したというのもふしぎでない。それにしても、静かに、魅するごとく静かに、おお鯨よ!はじめてお前を見る万人の前をすべってゆくことよ――かつてその手で幾ばくのものをたぶらかし破滅させたかは知らぬが。

「凶兆?凶兆?――字引みたいなことをいうな。神に、もし人にいいたいことがあったとすれば、はっきり面と向かっていわれるはずだわ。首をかしげたり、婆あみたいな縁起かつぎなどされるものか」

「もしエイハブが思索にふける時を持つなら、これこそ思索の題目じゃ。だがエイハブは思索はせず、ただ感じ、感じ、感じるのみだ。それだけでも人間の身には痛々しすぎるほどだ。思索は不逞だ。神のみがその特権をもつ。思索とは冷静平穏であるものだ。そうであらんばならぬのだ。ところが、われわれのあわれな心臓は動悸うち、あわれな頭脳は鳴りひびき、とても思索には耐えられぬ」