夏目漱石『彼岸過迄』

「じゃ性質はどんな性質でしょう」
性質なら敬太郎にもほぼ見当が付いていた。「穏やかな人らしく思いました」と観察のとおりを答えた。
若い女と話しているところを見て、そういうんじゃありませんか」
こう言った時、田口の唇の角に薄笑の影がちら付いているのを認めた敬太郎は、なにか答えようとした口をまた塞いでしまった。
若い女には誰でも優しいものですよ。貴方だってまんざら経験のないことでもないでしょう。ことにあの男ときたら、人一倍そうなのかもしれないから」と田口は遠慮なく笑いだした。

敬太郎の胸にもこの疑は最初から多少萌さないでもなかった。改めて自分の心を解剖してみたら、彼等二人の間に秘密の関係がすでに成立しているという仮定が遠くから彼を操って、それがために偵察の興味が一段と鋭く研ぎ澄まされたのかもしれなかった。肉と肉の間に起るこの関係をほかにして、研究に価する交渉は男女の間に起り得るものでないと主張するほど彼は理論化ではなかったが、暖かい血を有った青年の常として、この観察点から男女を眺めるときに、はじめて男女らしい心持が湧いてくるとは思っていたので、なるべくそこを離れずに世の中を見渡したかったのである。年の若い彼の目には、人間という大きな世界があまりはっきり分らない代わりに、男女という小さな宇宙はかくあざやかに映った。したがって彼はたいていの社会的関係を、できるだけこの一点まで切落として楽しんでいた。

僕は常に考えている。「純粋な感情ほど美しいものはない。美しいものほど強いものはない」と。強いものが恐れないもは当り前である。僕がもし千代子を妻にするとしたら、妻の目から出る強烈な光に堪えられないだろう。その光は必ずしも怒を示すとは限らない。情の光でも、愛の光でも、もしくは渇仰の光でも同じことである。僕はきっとその光のために射竦められるにきまっている。それと同程度かあるいはより以上の輝くものを、返礼として彼女に与えるには、感情家として僕があまりに貧弱だからである。僕は芳烈な一樽の清酒を貰っても、それを味わい尽くす資格を持たない下戸として、今日まで世間から教育されてきたのである。

僕も男だからこれからさきいつどんな女を的に劇烈な恋に陥らないとも限らない。しかし僕は断言する。もしその恋と同じ度合の劇烈な競争をあえてしなければ思う人が手に入らないなら、僕はどんな苦痛と犠牲を忍んでも、超然と手を懐にして恋人を見棄てるつもりでいる。男らしくないとも、勇気に乏しいとも、意志が薄弱だとも、他から評したらどうにでも評されるだろう。けれどもそれほど切ない競争をしなければ吾有にできにくいほど、どっちへ動いても好い女なら、それほど切ない競争に価しない女だとしか僕には認められないのである。僕には自分に靡かない女をむりに抱く喜びよりは、相手の恋を自由の野に放ってやった時の男らしい気分で、わが失恋の傷痕を淋しく見詰めているほうが、どのくらい良心に対して満足が多いか分らないのである。

僕の頭(ヘッド)は僕の胸(ハート)を抑えるためにできていた。

僕が煮え切らないまた捌けない男として彼女から一種の軽蔑を受けていることは、僕のとうに話したとおりで、実をいえば二人の交際はこの黙許を認め合ったうえの親しみにすぎなかった。その代わり千代子が常に畏れる点を、さいわいにして僕はただ一つ有っていた。それは僕の無口である。彼女のように万事明けっ放しに腹を見せなければ気の済まない者からいうと、いつでも、しんねりむっつりと構えている僕などの態度は、決して気に入るはずがないのだが、そこにまた妙に見透かせない心の存在が仄めくので、彼女は昔から僕を全然知り抜くことのできない、しやがって軽蔑しながらもどこかに恐ろしいところを有った男として、ある意味の尊敬を払っていたのである。これは公にこそ明言しないが、向こうでも腹の底で正式に認めるし、僕も冥々のうちに彼女から僕の権利として要求していた事実である。

市蔵という男は世の中と接触するたびに内へとぐろを捲き込む性質である。だから一つ刺激を受けると、その刺激がそれからそれへと回転して、細かく心の奥に喰い込んでゆく。そうしてどこまで喰い込んでいっても際限を知らない同じ作用が連続して、彼を苦しめる。しまいにはどうかしてこの内面の活動から逃れたいと祈るくらいに気を悩ますのだけれども、自分の力ではいかんともすべからざる呪いのごとくに引っ張られてゆく。そうしていつかこの努力のために斃れなければならない、たった一人で斃れなければならないという怖れを抱くようになる。そうして気狂のように疲れる。これが市蔵の命根に横たわる一大不幸である。この不幸を転じて幸とするには、内へ内へと向く彼の命の方向を逆にして、外へとぐろを捲き出させるよりほかに仕方がない。外にある物を頭へ運び込むために目を使う代わりに、頭で外にある物を眺める心持で目を使うようにしなければならない。天下にたった一つで好いから、自分の心を奪い取るような偉いものか、美しいものか、優しいものか、を見出さなければならない。一口にいえば、もっと浮気にならなければならない。