小松左京『日本沈没』

「日本――日本か……」田所博士は、ふいにべそをかきそうな、くしゃくしゃの顔になった。声までうるんだみたいな、おかしな具合になった。「日本など――こんな国なんか、わしはどうでもいいんだ。幸長君。――わしには地球がある。大洋と大気の中からもろもろの生物を何十億年にわたって産み出し、ついには人類を産み出し、自分の産み出しはぐくんだそいつらに、地表をめちゃめちゃにされながら、なおそれ自体の運命、それ自体の歴史をきざんでゆく、この大きな――しかし宇宙の中の砂粒より小さなーー星がある。大陸をつくり、山をつくり、海をたたえ、大気をまとい……氷をいただき、それ自体の中に、まだまだ人間の知らん秘密をたたえた、この地球がある。わしの心は……この地球を抱いているんだよ。幸長君。おかしな表現かもしらんが――このあったかい、しめった、凸凹の星を……あんなに冷たい真空の、放射線と虚無の暗黒にみちた宇宙から、しめっぽい大気でやさしくその肌をまもり、その肌のぬくみで、こういった大地や、緑の木々や、虫けらを長い間育ててきた、この何か知らんやさしげな星を……太陽系の中で、ただ一つ、子供をはらむことのできたこの星を……地球はむごたらしいところがあるかもしれん。だが、そいつにさからうことは、あまり意味がない。――わしには、地球があるのだ。日本が――この小さなひもみたいな島がどうなろうと……」

――たのしんでくれ……小野寺は、光のあふれるあたりを見つめながら、ほとんど祈るような気分で思った。――せめて、今、しっかりおたのしんでおいてくれ、みんな。一刻一刻を、かけがえのないものとして、たのしむのだ。ささやかすぎる快楽の記憶でも、ないよりはあったほうがましだ。今、たのしんでおくのだ。――明日は、……ないかもしれない。

「今まで起こったことさえ、あまり、はっきりわかっていない……」と田所博士は、ぼんやりした声でつぶやいた。「まして……これからどんなことが起こるか。――ひょっとしたら、これから起こることは、この四十六億年の歴史をもつ、古びた地球にとってさえ、まったく新しい未経験のことかもしれんのだ……」
「どういうことでしょうか?」と小野寺は聞いた。「過去に一回も起こったことのないようなことが、これから起こるというんですか?」
「ちょっと待ってください」と中田が口をはさんだ。「過去に一度も起こったことのないようなことが――はたして起こり得るんですか?」
「歴史とはそういうものだ――」と田所博士は、ふりかえっていった。「単なるくりかえしではない。まったく新しいパターンがあらわれる。――それは諸現象の進化相というものだ。地球の立場にたって履歴を考えてみたまえ。――太陽系の中に、十個の惑星が生まれる。大きさはまちまちだが、成立の仕方はほとんど同じだろう。同じようなスタートをきり、その中の一つの星の中に、突然生命が生まれる。他の惑星の、どれも、その過去において経験していないことだ。生命発生以前の段階で、この十個の惑星を観察している意識があったとして、十個のうちの、どれに、生命が発生するかということは――生命発生以前において、生命というものがどんなものであるか。という知識をもたないとするならば――まったく予測できないはずだ」

「先生は過去のデータの延長では予測できないことを、どうやって、予測しようとなさるのですか?」
「直観とイマジネーションだ……」田所博士ははげしい口調で、叫ぶようにいった。
「中田君ーー確率過程に位相空間の概念をもちこんだ君にはわかるだろう。ーー人間の直観力とイマジネーションは、厳密な意味では科学の中にはうけいれられない。科学はまだこの二つを、“方法"として厳密にとりれるところまで発展していないといってもいい。にもかかわらず、近代科学を、あるいは近代数学を、飛躍させてきたのは、じつにこの二つの力なのだ、ということが……。数学であれ、理論科学であれ、決して単に、知り得たかぎりのデータの演繹、帰納だけによって発展してきたのではない。逆に、わずかなデータから、それまで思いつかれもしなかった新しい関係と、パターンを発見する、人間の奔放なイマジネーション、雄大な構想力が、科学の基礎的認識を飛躍的に発展させてきた。――そこにはまちがいも山ほどあった。しかし、近代科学の基礎的認識を根底的に変えたようないくつかの理論においては、ほとんどの場合、まず、わずかな根拠から直観的にみちびかれたアイデアが、仮説が、先に発表され、それにもとづいて、検証はあとから行われているのだ。――メンデルの遺伝法則がそうだ。アインシュタイン相対性理論もしか、プランク量子論もしかり……。ダーウィンの進化論は、誰の眼にももっともに思われ、いくつもの傍証はあがりながら、まだ完全に科学的に"証明"できないでいる。理論展開のスケールが、超長期生物的時間にわたるものだからだ。しかも生物が進化するということは、まぎれもない事実である」

地震――それは、突然大地の底からおそいかかり、一挙に下のほうから心臓をつかむ冷たい恐怖であり、一瞬にして人々の理性も思考力も麻痺させてしまう。恐怖の衝撃が、ただやみくもで盲滅法な反射だけをひき起こし、この瞬間、誰一人として冷静でいられない。――そして、この全部の人々が、一斉に理性を失う数秒間の間に、多くの決定的なことが起こり、災厄は増幅されるコースに乗り入れてしまうのだ。

本職の「政治家」は、いわば「孤独な選択」の専門家であり、プロであるはずだった。――「権力」というものは、いってみれば、そこに発生するのだ。だから「権力者」は依然として、古代以来の「カリスマ」の尾てい骨をくっつけていざるを得ない、というのがこの若い、六十代半ばにも達しない総理大臣の信念だった。――政治というものは、ついに「合理化」などはできないものかもしれない。少なくとも政治的過程が、「論理的ーー確率的という意味をふくめて――過程」になるのは、はるか先のことだろう。コンピューターがさらに高度に発達し、政治というものが、ゲーム理論選択公理を組み合わせた一種の自動装置になってしまう日が、いつかは来るにしても――しかし、その日になっても、あるタイプの人間のつぎすまされた「カン」と、はげしい精神力をもってなされる「決断」は、ある場面において、壮大なコンピューターにまさるにちがいない。なぜなら――「政治的選択」というものの中には、コンピューターでさえ完全には予見できない暗黒な未来にむかって、とばなければならない時があるからだ。

背中に凍てついた地面の冷たさが、しんしんとしみこんできた。ひっくりかえって、灰色の空からおちてくる黒っぽい、埃のような雪片を見つめていると、眼窩や頬に残る鈍く熱い疼痛が、ひさしぶりにさわやかなものを体の底からよみがえらせるようだった。

玲子……という言葉が浮かび上がりそうになるのを、彼は水に人間の頭を突っこんで殺そうとしているときのような、残忍な心で抑えつけた。冷酷無惨な人殺しの感情にでもならなければ、その言葉はいるかのように――あるいは行き脚をつけて、水面角ほとんど九十度で急速浮上をする潜水艦のように、猛烈な勢いで意識の底からはねあがり、彼にとびかかってきそうだった。そうなったら、肥厚し、乾燥した心からの表面が割れて、ありとあらゆる熱い叫びが、噴火のように噴き出し……彼はまた胸をかきむしって、、のたうちまわらなくてはなるまい……。