和辻哲郎『人間の学としての倫理学』

元来我々の用うる言葉の内antoropos、homo、man、Menschなどに最もよく当たる言葉は「人(にん)」及び「ひと」である。すでにシナの古代において、人は「万物の霊」あるいは生物中の「最霊者」であり、人の人たるゆえんは二足にして毛なきことではなくまさに「弁(あるいは言)を持つこと」(荀子、非相篇)であった。この二つの規定はギリシア人がantoroposに与えた規定と明白に合致する。日本人はその文化的努力の初期においてかくのごとき規定を有する「人」の語を学び、そうしてそれに「ひと」という日本語をあてはめたのである。

蜂やその他の集団的動物もまたポリス的動物である。人間がそれらと異なるのは、一に言葉を持つがゆえである。ところで言葉(logos)は単なる声ではない。他の動物でも、快と苦を感じてそれを相互に知らせ合うことのできる限りは、声をば快苦のしるしとして使っている。しかるに言葉は、有用なものと有害なもの、従って正しいものと不正なものとの弁別を示すためにあるのである。だから言葉を持つことは、正と不正、善と悪を弁別することにほかならぬ。かかる弁別の共同が家族やポリスを(すなわち人間を)、成り立たしめるのである。しからば人は本性上ポリス的動物であるとともに、またロゴスをともにすることによってポリス的動物になるのである。