サマセット・モーム『お菓子と麦酒』

他の人も私と同じかどうか知らないが、とにかく私は「美」を長時間熟考することはできない。「エンディミオン」の第一行目を書いた時のキーツほど虚偽の陳述をした詩人はいまいと私には思える。美しい物が私に美的感覚の魔法をかけてくると、私の心はすばやく他へそれてしまう。景色や絵に幾時間も恍惚として見とれることができると言う人の言葉は、どうも疑わしいものだ。美は恍惚境である。それは空腹と同じくらい単純なものだ。特に云々することは何もない。バラの香りのようなものだ。人はその香りをかぐことができる。それだけのことだ。だからこそ、芸術の批評というものは、美に関係のない、したがって芸術に関係のない限りならよいが、さもなければ退屈なものなのだ。(略)しかし人々は「美」に他の要素を付け加えるーー崇高さ、人間的興味、やさしさ、愛情などーーこれというのも、美だけでは長い間人々を満足させないからだ。美は完璧である。そして完璧というものは(これが人間性だが)われわれの注目をほんのわずかな間しかひかないのだ。

おかみさんが長年住みなれたこの居心地のいい、みすぼらしい家庭的な居間を見回しながら、私は、何かおかみさんのためにしてあげられることはないかな、と思った。蓄音機があるのに気がついた。じつは蓄音機でも贈ろうかと思っていたのだが。
「何か欲しいものはありませんか、おばさん」と私がきいた。
彼女は考えこんで、小さな丸く光った目で私をじっと見た。
「べつに何もありませんけどね、あなたにそう言われてみりゃ、そう、あと二十年働きつづけられるように、健康と力が欲しいですね」
私はべつに自分がセンチメンタリストとは思わないが、おかみさんの答が思いがけなかったのと同時に、いかにもおかみさんらしかったので、のどにぐっと固まりがこみあげた。

「奥さんにはおわかりにならないのです。あの人は純真無垢なのです。あの人の本能は健康で無邪気なものなのです。あの人は人々を幸せにするのが好きだった。愛をあ愛したのです」
「それを愛といえまして?」
「では、愛の行為といいましょう。あの人は生まれつき情愛が深い。誰かを好きになると、その男と寝るのは彼女にとってはごく自然のことでした。少しもためらうことはありませんでした。これは罪ではない。好色でもない。彼女の天性です。太陽が熱を、花が香りを与えると同じように、彼女が彼女自身を与えるのは自然だったのです。彼女にも喜びだったし、人にも喜びを与えたかった。彼女の性格には何の影響もありませんでした。いつまでも誠実で、無垢で、無邪気でした」

長話になりそうなので、作家の一生について考えてみた。それは苦難の一生である。まず貧困と世間の冷遇に耐えなければならない。次に、ある程度の成功を収めると、一か八かの危険に、進んで従わねばならない。気まぐれな大衆に左右される。インタビューをしたがるジャーナリストや、写真をうつしたがる写真屋、本を早くとせかす編集者、所得税をとせきたてる収税吏、昼食を一緒にと誘う上流人、講演をしてくれという協会の秘書、結婚してくれという女、離婚してくれという女、肉筆が欲しいという若者、配役をくれという役者、金を無心する見知らぬ人、内輪もめの忠告をもとめる大げさな婦人、自分の書いたものを批評してくれという熱心な青年、代理人、出版社、マネージャー、しつこい人、崇拝者、批評家、そして自分自身の良心ーー作家はこれら全部のいなり放題だ。しかし作家にもたった一つだけ埋め合わせがある。何か心にかっかっている時ーーたとえそれが悩みであろうと、友の死の悲しみだろうと、むくいられざる愛であろうと、傷ついた自尊心であろうと、親切にしてやった者に裏切られた怒りであろうと、つまりいかなる感情も、いかなる悩みも、それを小説の主題に使ったり、随筆評論の添え物として使って、白紙に書きおろしてしまえば、すっかり忘れ去るものができるのだ。作家こそ唯一の自由人といえよう。