村上春樹『職業としての小説家』

自分のオリジナルの文体なり話法なりを見つけ出すには、まず出発点として「自分に何かを加算していく」よりはむしろ「自分から何かをマイナスしていく」という作業が必要とされるみたいです。考えてみれば、僕らは生きていく過程であまるに多くのものごとを抱え込んでしまっているようです。情報過多というか、荷物が多すぎるというか、与えられた細かい選択肢があまりに多すぎて、自己表現みたいなことをしようと試みるとき、それらのコンテンツがしばしばクラッシュを起こし、時としてエンジン・ストールみたいな状態に陥ってしまいます。そして身動きがとれなくなってしまう。とすれば、とりあえず必要の無いコンテンツをゴミ箱に放り込んで、情報系統をすっきりさせていまえば、頭の中はもっと自由に行き来できるようになるはずです。
それでは、何がどうしても必要で、何がそれほど必要でもにあか、あるいはまったく不要であるかを、どのようにして見極めていけばいいのか?
これも自分自身の経験から言いますと、すごく単純な話ですが、「それをしているとき、あなたは楽しい気持ちになれますか?」というのがひとつの基準になるだろうと思います。もしあなたが何か自分にとって重要だと思える行為に従事していて、もしそこに自然発生的な楽しみや喜びを見出すことができなければ、それをやりながら胸がわくわくしてこなければ、そこには何か間違ったもの、不調和なものがあるということになりそうです。そういうときはもう一度最初に戻って、楽しさを邪魔している余分な部品、不自然な要素を、片端から放り出していかなくてはなりません。

時間は、作品を創り出ていく上で非常に大切な要素です。とくに長編小説においては、「仕込み」が何より大事になります。自分の中で来るべき小説の芽を育て、膨らませていく「沈黙の期間」です。「小説を書きたい」という気持ちを自分の中に作り上げていきます。そのような仕込みにかける時間、それを具体的なかたちに立ち上げていく期間、立ち上がったものを冷暗所でじっくり「養生する」期間、それを外に出して自然の光に晒し、固まってきたものを細かく検証し、とんかちしていく時間……そのようなプロセスのひとつひとつに十分な時間をかけることができたかどうか、それは作家だけが実感できるものごとです。そしてそのような作業ひとつひとつにかけられた時間のクオリティーは必ず作品の「納得性」となって現われてきます。目には見えないかまおしれないけど、そこには歴然とした違いが生まれます。

「やるべきことはきちんとやった」という確かな手応えさえあれば、基本的に何も恐れることはありません。あとのことは時間の手にまかせておけばいい。時間を大事に、礼儀正しく扱うことはとりもなおさず、時間を味方につけることでもあるのです。