D・フェルナンデス『除け者の栄光』

「ジュネは一つの時代の最後の証人なんだ。あなたがある種の風俗を選択したために否応なく反抗や犯罪や悪に親しんだ時代のね。ジュネの天分は、セックス、血、愛、死、美、呪詛などの絶妙な組み合わせを、最後にもう一度燃え上がらせるところにあった。だが、歴史的に見れば、ジュネは時代遅れの天才、失われた世界の詩人なのだ。たとえジュネが捨て児、私生児、孤児院のいじめられっ子といった自分の生い立ちを決して認めなかったことが、彼の個人的な事情で説明がつくとしても、今日では、あなたやぼくであれ、友人のだれかれであれ、どんな人間であっても、自分は社会の屑、つまり世間の除け者だと考える権利はもう持てないのだ。ジュネは死んだ。彼の天分には脱帽しよう。しかし、思い切って言うけれど、彼の考えは間違っている、彼の哲学も根本的に間違っている」

「文学における最良のテーマは、疑惑と期待と不安を創り出すテーマだ。ロンドンのペストをテーマとするとしよう。読者は紹介された十人の登場人物のうち、だれが死に、だれが生き残るか知りたがるだろう。もし一ページ目からすでに全員が必ず死ぬことを正確に知ってしまったら、読者は本を放り出してしまうにちがいない。エイズだって治る可能性があれば、いいテーマになる。ところが、エイズに罹った場合は百パーセント死亡する。死からまぬがれるチャンスは万に一つもない。そんなテーマの芝居が興味を惹くわけがない」

マルクは日々の果てしない時間を埋めるために、星占いを研究し始めていた。以前だったら、そのような児戯に等しいことは笑って信じなかったところである。だが、今の彼は、世界を支配したいという人間精神の野望が、哀れに思われてならなかった。愛する男が地上に引きとめられている絆から自由になる時が来ても、なおマルクは、おとなしく理性と権利の窮屈な枠の中に閉じこめられていられるだろうか?父親から受け継いだ実証的な性向が、母親の血から受けた魔術的なものに対する興味に席を譲った。マルクが菜食主義者になったのは、ただリニョー氏の職業に対する憎しみだけが原因ではない。不条理へと横滑りしながら、自分の合理的な信念の名残りを完全に棄て去るためでもあった。そして、同じ目的のために、月曜日は爪を切る日、木曜日は髪を洗う日と決め、その他の日は、どうでもいいような細々とした仕事をすることにした。しかし、そうした仕事は、きわめて規則正しく、まるで祭壇の前の司祭の動作のように、もったいぶって、おごそかに行った。