メモ

深沢七郎『楢山節考』

『楢山節考』 雪だった。辰平は、 「あっ!」 と声を上げた。そして雪を見つめた。雪は乱れて濃くなって降ってきた。ふだんおりんが、「わしが山へ行く時ァきっと雪が降るぞ」と力んでいたその通りになったのである。辰平は猛然と足を返して山を登り出した。…

ブルワ・リットン『ザノーニ』

美しい真実の感興よ!そこには天才の息吹きがあふれている。少年よ、あるいは人よ、詩人になることはかなうまい、もしかりに魔法のカーテンが初めて開き、散文の世界に詩の世界がとび込んできたとき、眼のまえの理想郷を、ロマンスを、カリプソの島を感得す…

アレクサンドル・デュマ『黒いチューリップ』

偉大な功績を果す偉大な人物が神のみ手のもとに都合よくあらわれるということは、まれである。だからこそたまたまこのような神の摂理の結びつきがあったような場合には歴史には即座に、この選ばれた偉人の名を記録して後世の人々の称賛に浴させるのである。…

サマセット・モーム『雨・赤毛』

『雨』 「つまりあなたの希望通りにちゃんとやらないということなんでしょう?」博士がひとつ冗談口をたたいてみた。 だが宣教師はニコリともしなかった。 「私のやってもらいたいというのは、正しいことなんです。人に説得されてはじめてするというような性…

谷川俊太郎『愛のパンセ』

『失恋とは恋を失うことではない』 失恋のすべてを通じて確かなことは、僕等はどんな失恋をするにしろそれは恋を失うことではにということです。失恋とは恋人を失うことかもしれないが、決して恋を失うことではない。 (略)失恋とは恋を失うと書く、ところ…

ヘミングウェイ『海流のなかの島々』

「なあ、トム、絵を立派に描くことは楽しみだが、文学を立派に書くのは責苦だ。一体どうしてかな?僕は立派な絵など描いたことはないが、あの程度でも結構楽しかった」 「さあ、どうしてかな。絵のほうが伝統の系譜が明確で、手助けが多いせいかもしれない。…

ルドルフ・シュタイナー『神秘学概論』

言語の中には、その本質上、他のすべてのことばから区別されうるようなことばが、ひとつだけ存在する。それは「私」(自我)ということばである。他のどんなことばも、対応する存在に対して、いつでも使うことができる。しかし「私」という言葉をある存在に…

安部公房『他人の顔』

光というやつは、自身透明であっても、照らしだす対象物を、ことごとく不透明に変えてしまうものらしいのだ。 その夜、家に戻ったぼくは、珍しくバッハを聴いてみようという気をおこしていた。べつに、バッハでなければならないというわけではなかったが、こ…

アゴタ・クリストフ『悪童日記』

「お前たちにも分かったようじゃな。宿と飯にありつくには、それだけのことをしなくちゃならん」 ぼくらは言う。 「そういうわけじゃないよ。仕事は辛いけれど、誰かが働いているのを何もしないで見ているのは、もっと辛いんだ。ことに、その働いている人が…

C.S.ルイス『悪魔の手紙』

〈敵〉は宇宙を彼のいやらしい、ちっぽけな模型で満たしたいと心から願っている。それらの模型の生命は、小規模ながらも質的には彼のそれとよく似ているだろう。このように似かよっているのは、〈敵〉が一方的に彼らを食いものにして呑みこんだからではなく…

小林多喜二『蟹工船・党生活者』

『蟹工船』 「表じゃ、何んとか、かんとか偉いこと云って、この態なんだ」 艦長をのせてしまって、一人がタラップのおどり場からロープを外しながら、ちらっと艦長の方を見て、低い声で云った。 「やっちまうか!?……」 二人一寸息をのんだ、が……声を合わせて…

三島由紀夫『沈める滝』

『しかし集中ということは、夢中になるということじゃない。問題は持続だ……』 握ろうとしても指のあいだからこぼれ落ちてしまった粉雪が、いつかしらしっとりと潤み、握った指の形を印し、掌の中に堅固な玉になって据っているのを見るのは、子供らしい喜びで…

トーマス・マン『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』

人生はなるほど、私たちがその素晴らしさゆえに何が何でもしがみつかなければならないような最高の財宝というあけでは決してないが、私たちに課せられた、いわばみずから選び取ったーー私にはそう思えてならないのだがーー困難で厳しい課題と見なされなけれ…

トルストイ『コサック』

「罪?なんの罪だ?」老人はきっぱりと答えた。「いい女を眺めるのが罪か?そいつと付き合うのが罪か?それともそいつをかわいがるのが罪か?あんたらのとこではそうなのか?いいや、あんた、そりゃあ罪じゃねえ、救いだよ。神様があんたを創った、神様が女…

ブルトン『狂気の愛』

現実に相手を選びあった二つの存在の融合が、太古の太陽が輝いていた時代の失われた色彩をあらゆる事物のなかに復元する。しかしまた、アラスカの噴火口の周囲でさえ灰の下に雪が残ることを欲する自然のあの気まぐれにより、孤独が猛威をふるう。そう、その…

エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』

資本主義の経済的発展にともなって、心理的雰囲気にもいちじるしい変化が起った。中世も終わりに近付くころ、不安な落ちつかない気分が生活をおおうようになった。近代的な意味の時間観念が発達しはじめた。一分一分がが価値あるものになった。時間のこの新…

ジャン・コクトー『ポトマック』

両親にとっては、奇妙な遠近法の法則によって、目の前で大きくなってゆく子供が、逆に遠ざかってゆくように見えるのである。 僕は恋をした。僕は悩んだ。僕は少なくとも(ブールデーヌの言葉を借りれば)《自分のことは自分でする》ことができるつもりだった…

遠藤周作『白い人・黄色い人』

『白い人』 「ジャック、ナチズムは政治だぜ。政治は人間の英雄感情や犠牲精神を剥奪する方法をちゃんと知っているんだ。犠牲感情だって、自尊心がなくっちゃ存在しない。だが、この感情はもろく砕いてみせられる。お前、ポーランドのナチ収容所の話をきいて…

小林秀雄『様々なる意匠・Xへの手紙』

『様々なる意匠』 われわれにとって幸福なことか不幸なことか知らないが、世に一つとして簡単にかたづく問題はない。遠い昔、人間が意識とともに与えられたことばというわれわれの思索の唯一の武器は、依然として昔ながらの魔術をやめない。劣悪を指嗾しない…

マルクス・アウレーリウス『自省録』

思い起こせ、君はどれほど前からこれらのことを延期しているか、またいくたび神々から機会を与えて頂いておきながらこれを利用しなかったか。しかし今こそ自覚しなくてはならない、君がいかなる宇宙の一部分であるか、その宇宙のいかなる支配者の放射物であ…

三島由紀夫『恋の都』

彼女は楽天的で、無頼のお人よしで、何度男にだまされても懲りなかった。純情というものはささやかなものだと世間で思われているが、彼女のような大味な純情もあるのである。 桟橋のコンクリートは初夏の正午の日をまばゆく反射させ、両側にとまった巨船の影…

ミヒャエル・エンデ『鏡の中の鏡--迷宮』

そのうち彼は、幕がいつかあがるだろうと信じるのをやめていた。けれども同時にまた、自分の場所をはなれられないということも、わかっていた。つまり、あらゆる予想に反して幕があがる可能性を無視することはできないからだ。希望をいだいたり、腹をたてた…

中島義道『悪について』

人間は、いかに理性的であり「道徳的に善い行為」とはどういうものか完全に知っているとしても、ただちにそれを実行するとはかぎらない。道徳的に善い行為とは何かを知っていることと、それを実行することとは異なる。両者のあいだには深淵が横たわっている。…

ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』

かつて人はこう言った。神はすべてを創造しうる。ただ論理法則に反することを除いては、と。ーーつまり、「非論理的」な世界について、それがどのようであるかなど、われわれには語りえないのである。 「論理に反する」ことを言語で描写することはできない。…

村上龍『半島を出よ』

貧乏な人間や貧乏な国家は、たいてい周囲から嫌われる。まして、そいつがひねくれていたりすればなおさらだ。 それは、貧乏でひねくれているやつは、たいてい自分をコントロールできないからだ。すぐに怒りだして、切れて、暴力をふるったり、自分の手首を切…

セネカ『怒りについて』

『摂理について』 お前たちには、必ず常にあり続ける善を与えた。それは、繰り返し反省し、点検するほど、より善く、より大きくなる。お前たちには、恐るべきものを軽んじ、快楽を厭うことを認めた。お前たちは外面で輝きはしない。お前たちの善は、内面に向…

泉鏡花『義血侠血』

良心は疾呼して渠を責めぬ。悪意は踴躍して渠を励せり。渠は疾呼の譴責に遭ひては慚悔し、また踴躍の教唆を受けては然諾せり。良心と悪意とは白糸の恃むべからざるを知りて、竟に迭に闘ひたりき。 「道ならない事だ。那麼様真似をした日には、二度と再び世の…

尾崎翠『途上にて』

省線の二停車場半。いいつれがあれば歩くにいい道のりです。そして今夜の私に、中世紀氏がいいつれでないとどうして言えるでしょう。この一週間私は部屋のなかでまったくひとりでした。階下のあかんぼの声にせめられながら運動不足をも重ねていますし、そし…

カント『啓蒙とは何か』

『啓蒙とは何か』 啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の支持を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人…

アラン『幸福論』

私の理屈は詭弁であるが、自分は正しいように思われる。そしてよく、私は頭がいいなどとうぬぼれるものだ。興奮ではこんなに苦しまない。恐怖を感ずれば逃げてしまって、そうすればあまり自分のことは考えない。しかし恐怖を感じたという恥ずかしさは、もし…