三島由紀夫『芸術断想』

『芸術断想』

バレエの抽象的な主題を表現するのに、裸体は妨げでないばかりか、裸体が却って修飾を取り去った裸の観念のアラベスクを成就する。しかし、バレエで取り扱われている肉体は、見られたかぎりの、客体としての純粋性を獲得しているので、われわれはアルファベットを並べて一つの言葉を組み立てるように、それから一つの観念を作り出すことができるのである。
しかしセリに重点のかかる芝居では、肉体はもはや単なる客体ではない。ひとたび作者の作り出した観念が、その体を借り、その口を借りて述べられるときには、俳優は、「見られた主体」という微妙な地位を獲得する。つまり、一個の純粋観念にとっては俳優の肉体は夾雑物であるに決っているので、ここに舞台芸術というものの、独特の不透明な性格がひそんでいる。
その俳優が裸体だったらどうだろうか?人間が裸になればなるほど、その肉体的存在の、客体としての性質があらわになるから、当然、セリフの領分である主体との間に、矛盾衝突が生れるだろう。それは仮面劇と正反対の効果を帯びるだろう。そのとき、観念はもはや裸ではありえず、客体としての肉体の衣装をまとってしか現れないだろう。裸体ということが、もっとも妨害的な舞台衣装になるだろう。

ピストルを打てば、消音ピストルでなければ、音がしなければ納まらない。しかし遠い花火があのように美しいのは、遅く来る音の前に、あざやかに無言の光りの幻が空中に花咲き、音の来るときはもう終っているからではないだろうか。光りは言葉であり、音は音楽である。光りを花火と見るときに、音は不要なのだが、あとからゆるゆると来る音は、もはや花火ではない、花火の追憶という別の現実性のイメージをわれわれの心に定着しつつ、別の独立な使命を帯びて、われわれの耳に届くのである。

芝居の制作一つにも、まずギリギリ決着の時点が先に決められ、よかれあしかれそれに間に合うことが至上命令とされる習慣は、日本人全般の仕事のやり方から来ていて、一朝一夕に革まるものではない。オリムピックなどは、もっとも日本人的情熱をそそるようにできている。四年前から時点が決っていて、半年前になって半狂乱になれば必ず間に合うのだ。

芝居とはSHOWであり、見せるもの、示すものである。すべてが観客席へ向って集約されてゆく作業である。それだというのに、舞台から向う側に属する人たちのほうが、観客よりもいつも幸福そうに見えるのは何故だろう。何故ん観客席のわれわれは、安楽な椅子を宛われ、薄闇の中で何もせずに坐っていればよく、すべての点で最上の待遇を受けているのにもかかわらず、どうしてこのように疲れ果て、つねに幾分不幸なのであろう。
私は妙な理論だが、こんなことを考える。つまり人生においても、劇場においても、観客席に坐るという人間の在り方には、何かパッシヴな、不自然なものがあるのである。示されるもの、見せられるものを見る、という状況には、何か忌わしいものがある。われわれの目、われわれの耳は、自己防衛と発見のためについているので、本来、お膳立てされたものを見且つ聴くようにはできていないかもしれない。
芸術の享受者の立場というものには、何か永遠に屈辱的なものがある。すべての芸術には、晴朗な悪意、幸福感に充ちた悪意がひそんでおり、屈辱を喜ぶ享受者を相手にすることをたのしむのである。

篠山紀信論』

動物的であるとはまじめであることだ。笑いを知らないことだ。一つのきわめて人工的な環境に置かれて、女たちははじめて、自分たちの肉体が、ある不動のポーズを強いられれば強いられるほど、生まじめな動物の美を開顕することを知らされる。それから突然、彼女たちの肉体に、ある優雅が備わりはじめる。