寺山修司『幸福論』

肉体について考えるとき、私たちが陥りやすいのは「肉体美」という迷信である。偉大な肉体は美しい肉体だ、とした古代ギリシャ人の伝統が、そのまま肉体の思想にとって代ってしまったのは何時頃からだろうか?
本来、肉体には美と同じ重みで真理や善も存在すべきであって、「肉体真」「肉体善」ということばがあってもいいはずなのである。たとえばマリリン・モンローという一人の自殺した女優の思い出について語るとき、私はあの幾分ふとり気味の肉体が「美」であったというよりは、むしろ「善」であったという気がしてならない。なぜなら、美とは本来、無駄の部分から見出されるべきものであるのに、マリリン・モンローの肉体的特色をなしているバストもヒップも、女として(また母としての)実用性に裏打ちされたものであったと思われるからである。

「万てを知る」ことによって解決しようとする理性の根源に対する挑戦は、いささか渡り鳥的ではあるが、歴史はそれ自体で何の目的も持っていないのだと知ったときに、ふるいおこすことのできる勇気にかわるだろう。私たちは、ほんとうは、多く知ることだけを望んでいるのではない。むしろ、人間の分け前としては「知る」ことよりも「体験する」ことの方に、自由を求めているのである。

じぶんの中に、鬼がいる限りは、かくれんぼを終わらせようとしたらじぶん自身を終わらせるしかほかに方法がないのか。自殺。ふと、津軽海峡を渡ったときの位デッキの上で見た濁流が思いうかぶ。あのとき、レインコートのポケットの中で手にふれたもの……汚れたハンカチ、ウインストンの空箱。「この世のほかの土地」にもニシン場はあるだろうか?長い長い冬の終わりの小学校教科書、青森と函館とのあいだの地理的「海峡」をこえた、狂気の黒潮。「全世界を見た者でも、彼等の落ちつかない心の中に、未知の世界を蔵しているであろう」(レミ・ド・グールモン)。かくれんぼが一生終わらない恐怖から、くらくらと目まいしてデッキの手すりにつかまる。ほたるの光、まどのゆき。