谷崎潤一郎『谷崎潤一郎フェティシズム小説集』『美食倶楽部』

谷崎潤一郎フェティシズム小説集』
『悪魔』

……これが洟の味なんだ。何だかむっとした生臭い匂を舐めるようで、淡い、塩辛い味が、舌の先に残るばかりだ。しかし、不思議に辛辣な、怪しからぬ程面白い事を、おれは見付け出したものだ。人間の歓楽世界の裏面に、こんな秘密な、奇妙な楽園が潜んでいるんだ。……彼は口中に溜る唾液を、思い切って滾々と飲み下した。一種掻き挘られるような快感が、煙草の酔の如く脳味噌に浸潤して、ハッと気狂いの谷底へ、突き落とされるような恐怖に追い立てられつつ、夢中になって、ただ一生懸命ぺろぺろと舐める。

『美食倶楽部』
『病蓐の幻想』

たとえてみれば、上下の顎骨の歯の根から無数の擾音が喧々囂々と群り生じ、一つの大きな、綜合された呻りを発して、Qua-an!Qua-aan!というように、口腔内の穹窿へ反響し続けているのであった。それはちょうど、恐ろしく野蛮な力でグワンと頬桁を擲られた跡などに、長く長く残っている痺れた感覚に似通っていた。そうして一々の歯の痛み工合を、よく注意して感じてみると、痛むというよりは、Biri biri-ri-ri!と震動しているように想われた。
「そうだ、痛みが極度に達すると、むしろ音響に近くなるのだ。あたかも空中で音波の生ずるように、歯齦の知覚神経が一種のヴァイブレエションを起すのだ。」と、彼は腹の中で呟いた。

『白昼鬼語』

近頃の私は、純日本式の、芸者風の美しさには飽き飽きしていた一人であるが、その女の輪郭は必ずしも草双紙流の瓜実顔ではなく、ぽっちゃりとした若々しい円味を含みながら、水の滴るような柔軟さの中に。氷の如き冷たさを帯びた目鼻立ちが物凄く整頓していて、媚びと驕りとが怪しく入り錯っているのであった。
そうしてもし、その女の容貌の内に強いて欠点を求めるならば、寸の詰まった狭い富士額が全体の調和を破って些か卑しい感じを与えるのと、太過ぎるくらい太い眉毛の、左右から迫ってくる眉間の辺に、いかにも意地の悪そうな、癇癖の強そうな微かな雲が懸かっているのと、こぼれ落ちる愛嬌を無理に抑え付けるようにして堅く締まっている唇の閉じ目が、渋い薬を飲んだ後の如く憂鬱な潤味を含んで、胸の悪そうな、苦々しい襞を縫っているのと、ーーまずそれくらいなものであろう。しかしそれらの欠点さえもこの場の凄惨な光景にはかえって生き生きと当て嵌まっていて、一層彼女の美を深め、妖艶な風情を添えているに過ぎなかった。

「全く綺麗ですな。この色を見ると、とても恐ろしい薬だとは思えませんな。」
男はなおもガラスの管を眼よりも高く差し上げて、うっとりと見惚れている。
「恐ろしい薬だから綺麗なんだわ。悪魔は神様と同じように美しいッていうじゃないの。」

「恐るべき殺人鬼、……そうだ。であると同時に美しい魔女でもある。そうして僕の頭の中には、恐るべきだという事は理窟の上から考えられるばかりで、あの女の美しい方面ばかりが際立っている。ゆうべの光景を想い浮かべてみても、ただ素晴らしい怪美人だ、この世の中の物としも思われないほどの妖艶な女だ、というような感情のみが湧き上って来る。昨夜節穴から覗き込んだ室内の様子は、たしかに殺人の光景でありながら、それが一向物凄い印象や忌まわしい記憶を留めてはいない。そこには人が殺されていたにもかかわらず、一滴の血も流れてはいず、一度の格闘も演ぜられず、微かな呻き声すらも聞えたのではない。その犯罪はひそやかになまめかしく、まるで恋の睦言のように優しく成し遂げられたのだ。僕は少しも寝覚めの悪い心地がしないで、かえって反対に、眩い明るい、極彩色の絵のようにチラチラした綺麗なものを、じっと視詰めていたような気持ちがする。恐ろしい物はすべて美しい、悪魔は神様と同じように荘厳な姿を持っていると云った彼女の言葉は、単にあの宝玉に似た色を湛えた薬液の形容ばかりでなく、彼女自身をも形容している。あの女こそ生きた探偵小説のヒロインであり、真に悪魔の化身であるように感ぜられる。あの女こそ、長い間僕の頭の中の妄想も世界に巣を喰っていた鬼なのだ。僕の絶え間なく恋い焦れていた幻が、かりにこの世に姿を現わして、僕の孤独を慰めてくれるのではないだろうかと、いうようにさえ思われてならない。あの女は僕のために、結局僕と出で会うために、この世に存在しているのではないだろうか。いやそれどころか、昨夜のあの犯罪も、事によると僕に見せるために演じてくれたのではないだろうか。ーーそんな風にまでも考えられる。僕はどうしても、たとえ自分の命を賭しても、あの女と会わずにはいられない。僕はこれから彼女を捜し出して、彼女に接近する事に全力を傾けるつもりでいる。……君が心配してくれるのは有り難いが、どうぞ何も云わないで勝手にさせてくれたまえ。前にも云った通り、僕はあの女の秘密を探るのが目的ではない。僕は彼女を恋いしているのだ。あるいは崇拝しているのだ、と云った方が適当かも知れない。」