『人生について ゲーテの言葉』

『修行時代』

詩というものは、傑作であるか、さもなければ全然存在してはならないものなのだ。それからまた、すぐれたものを作る素質のない者は芸術から遠ざかるべきだし、それへの誘惑も厳に警戒すべきだ。なるほど、どんな人間にも自分が見たものを模写しようとする漠然たる欲望がうごいていることはたしかだが、しかし、こういう欲望があるからといって、自分が企てることを成就する力量があるという証拠にはならない。

エッカーマン『対話』

それはそうと、しばしば自分の作品が自分にまったく覚えのないようなことがある。ついこのごろフランスのものを読み、読みながら、この人はなかなか気のきいたことをいう、自分も異論はいえまい、と考えた。そしてよくよく見ると、それは自分の書いたものの翻訳だった。

コミックマーケット91三日目

宇都宮9:06→10:22大宮10:27→11:10大崎11:11→11:24国際展示場
握手本にゲスト参加した「はわわ団」でまるはさんとアイドル談義。近所に乃木坂本出してるトコもあったりしたのでちょこちょこと購入。
twitterで乃木欅描いてるけむ坂さんが坂道本探したがっていた(?)のでコンタクトとり売り子されてるサークルに行きごあいさつ。立場は逆だけど発信しとくもんだよなあと思った。自分のコピー本も浮かばれてよかった。
創作系目当てで新設の東7ホールに行ってみる。建物が三角形で斜めの壁沿いにサークルが配置されてるので晴海の東館を思い出した。
あともう少しお会いしたい方もいたりしたんだがちょうど不在で残念。まあ仕方ない。
やっぱり自分のスペースないと所在なげだなーというのもあったし何よりモチベーションが違うので次回夏は参加できたい。
今回の移動中は村上春樹海辺のカフカ(上)』。

カポーティ短編集

『銀の酒瓶』

「それはきみが想像しているような理由からじゃない。つまり、言い換えれば、欲のためじゃない。欲ではないんだ。だれにとっても魅力なのは謎だ。いいかい、あの銀貨や白銅貨を見て、何と考える?うわあ、ずいぶんあるな、かい?いや、いや。だれでも考えるのは、うわあ、いったいどれくらいあるんだろう、だで、こいつは奥深い疑問だ。人それぞれに違った意味があるからね」

コミックマーケット91二日目

この冬は芸能ジャンルが一日目で仕事だったので三日目男性向ジャンルで申し込んではみたのだが敢えなく落選。一応自分の備忘用に夏以降の絵をまとめたコピー本だけ作りはしたものの渡すあてもそんなになく。のんびり参加。
宇都宮8:20→8:36自治医大8:52→10:00赤羽10:12→10:55国際展示場
「青息吐息」(志村貴子)にて新刊と頼まれ物既刊。列も無く既刊も普通に買える状態で助かる。
「カゲ路」で既刊(シリーズ一冊目)を買いつつかげきちさんにごあいさつ。徳誰布教本は今回出来なかったようで残念。新刊の方いただき感謝。二次元と三次元の融合みたいな部分で非常に興味深い。
ふらふら回って見かけた弱ペダ本一冊購入「lluvia」(ひかわ)『glorious locus SHN』。線のやわらかさがすごい。ジャンルも何もわからないのに通りがかりで買うこういうのが楽しい。
夕方には帰宅。

三島由紀夫『真夏の死』

『翼』

東京の空がそれほど青く、星空があれほど澄明であったのは、生産不振によって都会の煤煙が減少を見たからであるが、そればかりではなく、戦争末期の自然の美しさには、死者の精霊たちの見えざる助力がはたらいているのではないかと思われるふしがあった。自然は死の肥料によって美しさを増す。戦争末期の空があれほど青く澄んでいたのは、墓地の緑があれほどにあざやかなのと同断の理由によるのではなかろうか?

『真夏の死』

彼ほどの手腕も生活力もある男が、こういう不幸に参っている図は、人の嫉妬を減殺する効能があるのみならず、強者の弱点というロマネスクな魅力をも成立たせる筈である。
妻の悲しみ方に特権的なものを感じると、彼は反撥して呑みに出かけて遅くかえったが、どこの酒も美味しく思われず、自分の内部にこれほど覿面な証人のあることが、いつも彼の良心に安堵を与えた。酔わない酒を無暗に呑むことには、克己的な快楽があったのである。

欅坂46「世界には愛しかない」全国握手会@幕張メッセ

宇都宮8:20→8:36自治医大8:43→10:30東京10:47→11:17海浜幕張
もうちょっと余裕あるつもりだったのだが気付いたら随分切羽詰まってしまった。駅から会場まで猛ダッシュしてギリギリ開演時間11:30に到着。上着てくるか迷ってたのだがTシャツ一枚にして正解だった。何とかスムーズに入場したら既に上村・尾関の影アナ中。
暗転の中アコギのOVERTUREに乗せてメンバー紹介VTR。アガる!ライブは「世界には愛しかない」からスタート。MV冒頭の平手ちゃんよろしくファンが叫ぶのも定着してきてる模様、こういう自然発生な流れ好き。MC挟みつつ収録全7曲披露。MV無くもちろんライブも初な「青空が違う」めちゃくちゃ楽しみにしてた、けど若干の物足りなさを感じたのは要するに歌の弱さなのかなとは思った。CDで最初に聴いた時も違和感あって、(近いところで乃木坂と比べてもまだ)歌の技術が稚拙ってことなのかなと思いつつ、聴き込む内にすごく好きにはなってたんだけど、それがライブで聴いてブリ返したのかもしれない。「語るなら未来を」も、やっぱり歌が弱く感じたかもしれない。ライブでCD音源ボーカル流れると萎える方なので生歌歓迎ではあるんだけど、いかんせんダンスと両立させるってのは困難すぎるのかもしれない。百戦錬磨のダンス主体グループだってボーカルとバックダンスは(パートによって)独立させてたりするんだからそらまあ歌いながら踊るなんて土台無茶なんだろうなとか、そんなことを考えながら見てた。ゆいちゃんず「ボブディランを忘れない」はラジオとかでもかかってなかった(多分)し通常版も持ってないのでほんとの初聴きだったんだがなんだかヘンテコな歌だな…という感想。ちゃんと聴き込むと違うのかもしれない。
MCでは握手レーン毎に挨拶したりしてたけど、小池長沢コンビへの歓声がすごくて熱狂的なファンが多いのかなと思った。それとお披露目ひらがなけやき。ひらがな用OVERTURE(?)すごくかっこよくてライブ(音楽)的には一番アガってたかもしれない。曲の途中途中で挟むひらがなメン自己紹介では影山さんがサッカー好きってことでシュートする姿が目を引いて、やっぱ動きがあると目立つもんだなあと思った。あとは齊藤京子さんの声の低さがかっこよかった。
結局60分以上やってたのかな?12:30分過ぎに終了。一旦退場し、そのまま握手待機列へ。13:00頃から特にストレスなく移動でき、涼しい館内で一息。13:30から握手会開始。
第6レーン菅井友香原田葵。待機10分程。菅井さんは先日KEYABINGOでおジャ魔女歌ってたのでソレ風に描いたイラスト掲げてったら「これ私ー!?」とあの高い声で言ってもらえて満足…。葵ちゃんはすんごいニコニコしてた印象。明るさが好きですーと言ったら最後バチンと音が聞こえそうな勢いのウインクくれて末恐ろしいな〜と思った。

↑髪型違うかもと書いた通り正しくは葵ちゃんポニテだった。全握でもそこまで目が向かないんだから個握で私服見てもなかなか覚えてられないんだろうな〜と思うのでレポ漫画とか描ける人すげえなと思う。
第1レーン石森虹花今泉佑唯。待機1時間近く?石森さんには徳山大五郎の役すごく好きと。今泉さんにはブログのシメの「ふぉ」が好き言うたらめちゃめちゃ顔近づけてニヤッて感じで「ありがと〜」て言ってきてプロってやつの一端を垣間みた気がした。でも「ふぉ」って言ってほしかった。

第3レーン齋藤冬優花渡邉理佐。待機30分位だったかな?ここは徳誰ギャル組コンビ!てことでそのイラスト出しつつ。でもなんか最初の菅井原田レーンは割と落ち着いてた気するんだけど後の2レーンはすごく流れ早くてこっちからの一言で終了〜という印象。俺のやり方が下手なのかもしれんが。

↑これ間違い。石森さんじゃなくて齋藤さんやった…。べりさ主体だからとはいえなぜそこ間違えるのか…。まあ勢いはあるってことでそのまま載せてしまう。
握手券3枚使い切ったので今日行ったメンバーへファンレターというかイラストに一筆箋を添えて。あとフリーゾーンで生写真トレードとか眺めてたんだけど結構面白かった。乃木坂のとかもあって気持ちはわかるがそういうもんなのかと。それからtwitterでも連絡とれたんぜさん・のの坂さん・メガ田さんにお会いしてご挨拶。お三方はミニライブ後ランチしてから今入場してきたばかりとのことで軽く立ち話だけしてまた今度と。
16時頃退場。今回も楽しい時間が過ごせた!
渡したイラスト備忘:6人とも徳山大五郎の一人、グループ、全員のと、菅井さんにはそれプラス菅井おじゃまじょと菅井トム。



西千葉で鈴木書房。ドストエフスキー『悪霊』4冊セット200円。ようやっと五大長編が手元に揃った。あとお腹空いたんで西友で豆大福なんて買ってしまったのだがこういうの腹はふくれるけど全然満足感ないなと今更に気付き地元着いてからコンビニでおにぎりなんて五年振り位に買って食べてしまった。21時頃に帰宅。ソッコーでレポ描く勢い。気持ちはこもった。

寺山修司『幸福論』

肉体について考えるとき、私たちが陥りやすいのは「肉体美」という迷信である。偉大な肉体は美しい肉体だ、とした古代ギリシャ人の伝統が、そのまま肉体の思想にとって代ってしまったのは何時頃からだろうか?
本来、肉体には美と同じ重みで真理や善も存在すべきであって、「肉体真」「肉体善」ということばがあってもいいはずなのである。たとえばマリリン・モンローという一人の自殺した女優の思い出について語るとき、私はあの幾分ふとり気味の肉体が「美」であったというよりは、むしろ「善」であったという気がしてならない。なぜなら、美とは本来、無駄の部分から見出されるべきものであるのに、マリリン・モンローの肉体的特色をなしているバストもヒップも、女として(また母としての)実用性に裏打ちされたものであったと思われるからである。

「万てを知る」ことによって解決しようとする理性の根源に対する挑戦は、いささか渡り鳥的ではあるが、歴史はそれ自体で何の目的も持っていないのだと知ったときに、ふるいおこすことのできる勇気にかわるだろう。私たちは、ほんとうは、多く知ることだけを望んでいるのではない。むしろ、人間の分け前としては「知る」ことよりも「体験する」ことの方に、自由を求めているのである。

じぶんの中に、鬼がいる限りは、かくれんぼを終わらせようとしたらじぶん自身を終わらせるしかほかに方法がないのか。自殺。ふと、津軽海峡を渡ったときの位デッキの上で見た濁流が思いうかぶ。あのとき、レインコートのポケットの中で手にふれたもの……汚れたハンカチ、ウインストンの空箱。「この世のほかの土地」にもニシン場はあるだろうか?長い長い冬の終わりの小学校教科書、青森と函館とのあいだの地理的「海峡」をこえた、狂気の黒潮。「全世界を見た者でも、彼等の落ちつかない心の中に、未知の世界を蔵しているであろう」(レミ・ド・グールモン)。かくれんぼが一生終わらない恐怖から、くらくらと目まいしてデッキの手すりにつかまる。ほたるの光、まどのゆき。