C.S.ルイス『悪魔の手紙』

〈敵〉は宇宙を彼のいやらしい、ちっぽけな模型で満たしたいと心から願っている。それらの模型の生命は、小規模ながらも質的には彼のそれとよく似ているだろう。このように似かよっているのは、〈敵〉が一方的に彼らを食いものにして呑みこんだからではなく、彼らの意志がみずから進んで〈敵〉の意志に従っているからなのだ。われわれが欲しているのは、やがては食いものとなりうる家畜だが、〈敵〉が欲するのは、ついには子となる可能性を秘めているしもべなのだ。われわれは貪欲に吸収することを欲する。〈敵は〉惜しみなく与えることを欲する。われわれは空虚であって、満たされたいと願っているが、〈敵〉にはわずかの欠け目もないどころか、ゆたかに満ちあふれている。われわれの戦争目的は、地獄にいますわれらの父が他のあらゆる存在を彼のうちに引きいれている世界の出現だが、〈敵〉が望むのは、彼に結びついてはいるが、それでいて独自性を保っている生きものたちの満ちあふれている世界なのだ。

クリスチャンたちは〈敵〉について、「神のいまさぬところでは虚無は強力だ」と言っている。虚無はたしかに力をもっている。虚無は人間の最良の年を、甘美な罪のうちにではなく、何とも知らぬ対象にたいして、なぜとも知らず心がわびしく揺らぐうちにむなしく浪費させる。

あるものをそれ自体のゆえに心から、私心なく楽しむ人間、その際、他の者がそれについて何と言おうが少しも気にかけぬ人間は、まさにその事実のゆえに、われわれのもっとも巧妙な攻撃のあるものにたいして完全武装しているようなものなのだ。

生物学的な必然性からして、人間の情熱のすべてはすでに未来を指向している。だから未来についての思いは希望と不安を掻きたてる。未来はまた人間にとって未知だ。したがって人間を未来について考えさせることは、非現実について考えさせることにほかならない。一言でいえば、未来はすべてのうちでもっとも永遠に似ていない。それは時のうち、もっとも完全に時間性を備えた部分なのだ。というのは過去は凍結していて、もはや流動性を備えていないし、現在は永遠の光に照らされているからだ。それがわれわれ悪魔は、創造的進化とか、科学的ヒューマニズム、あるいは共産主義といった、人間の愛情を未来に、すなわち時間性の核心に固定させる思想体系を奨励してきたわけだ。またそれだから、ほとんどすべての悪は未来に根ざしているのだ。感謝は後方の過去を顧みるし、愛情は現在を視野におく。しかし不安、貪欲、欲望、野心はもっぱら前方に、未来に関心をもつ。

人間は時のうちに生活している動物であって、現実を連続的にしか経験できない。したがって多くの現実を経験するには、多くの異なった経験をしなくてはならず、いいかえるなら、変化を経験しないわけにはいかない。人間が変化を必要とするがゆえに、われわれの〈敵〉(じつは彼は快楽が大好きなのだ)は変化を人間にとって快いものとした(ちょうど飲食を人間にとって楽しいものにしたように)。けれども〈敵〉は飲食の場合と同様、人間が変化そのものを目的とすることを望んでいない。
そこで〈敵〉は人間のうちに、変化にたいする愛とともに、恒常にたいする愛をつくりだしてバランスを保たせた。人間のこの二つの好みを、彼が創造した世界のうちで何とか満足させようと、〈敵〉はそこに変化と恒常がいわく言いがたく結びついている、一種のリズムを置いた。彼が人間に与えている四季はそれぞれに異なっていながら、毎年、同じ姿でめぐってくる。だから春はつねに新鮮に感じられるが、それでいていつも時を超えた太古からの主題の繰り返しとして感じられるのだ。〈敵〉は彼の教会において人間に霊の暦を与えているが、クリスチャンはこの暦において、断食から響宴への変化を経験する。しかも響宴の本質はつねに変わらない。