小林多喜二『蟹工船・党生活者』

蟹工船

「表じゃ、何んとか、かんとか偉いこと云って、この態なんだ」
艦長をのせてしまって、一人がタラップのおどり場からロープを外しながら、ちらっと艦長の方を見て、低い声で云った。
「やっちまうか!?……」
二人一寸息をのんだ、が……声を合わせて笑い出した。

中積船は漁夫や船員を「女」よりも夢中にした。この船だけは塩ッ臭くない、ーー函館の匂いがしていた。何ヶ月も、何百日も踏みしめたことのない、あの動かない「土」の匂いがしていた。それに、中積船には日付の違った何通りもの手紙、シャツ、下着、雑誌などが送りとどけられていた。

『党生活者』

私は此頃になって、自分がどうして「雑談」をしたがるのか、その理由に気付いた。ーー私たちは仕事のことでは殆ど毎日のように同志と会っている。が、その場合私たちは喫茶店でも成るべく小さい声で、無駄を省いて用事だけを話す。それが終われば直ぐその場所を出て、成るべく早く別れてしまう。これと同じ状態が三百六十五日繰り返されるわけである。勿論私はそういう日常の生活形態に従って、今迄の自分の生活の型を清算し、今ではそれに慣れている。然し留置場に永くいると、たまらなく「甘いもの」が食べたくなり、時にはそれが発作的な病気のように来ることがあるのと同様に、私の場合ではその生活の一面性に対する反作用が仲間の顔をみると時には雑談をしようという形をかりて現われるのであるらしい。

私達は退路というものを持っていない。私たちの全生涯はただ仕事にのみうずめられているのだ。それは合法的な生活をしているものとはちがう。そこへもってきて、このような裏切的な行為だ。私たちはそれに対しては全身の憤怒と憎悪を感じる。今では我々は私的生活というものを持っていないのだから、全生涯的感情をもって(若しもこんな言葉が許されるとしたら)、憤怒し、憎悪するのだ。

母は帰りがけに、自分は今六十だが八十まで、これから二十年生きる心積りだ、が今六十だから明日にも死ぬことがあるかも知れない、が死んだということが分かれば矢張りひょっとお前が自家へ来ないとも限らない、そうすれば危ないから死んだよいうことは知らせないことにしたよ、と云った。死目に遇うとか遇わぬとかいうことは、世の普通の人にとってはこれ以上の大きな問題はないかも知れぬ。しかも六十の母親にとっては。母がこれだけのことを決心してくれたことには、私は身が引きしまるような激動を感じた。私は黙っていた、黙っていることしか出来なかった。