ブルトン『狂気の愛』

現実に相手を選びあった二つの存在の融合が、太古の太陽が輝いていた時代の失われた色彩をあらゆる事物のなかに復元する。しかしまた、アラスカの噴火口の周囲でさえ灰の下に雪が残ることを欲する自然のあの気まぐれにより、孤独が猛威をふるう。そう、そのような矛盾した場、人間のるつぼの奥底にこそ、人々が新しい美を、「もっぱら情熱的な目的でのみ考察された」美を探しに行くようわたしは求めたのだった。

今でもなおわたしは、自分の自由な状態からしか、あらゆるものと出会うべくさまようことへのこの渇きからしか、何かを期待することはない。これこそがわたしを、その他の自由な存在との、神秘的な交信の状態においてくれるのである。あたかも、われわれ自由な存在がとつじょ結集することを求められているかのように。見張りの歌、期待をまぎらす歌のつぶやき以外のささやきを、わたしの人生が背後に残さなければいいのだが。起こったり、起こらなかったりといったことに関係なく、すばらしいのは、期待そのものなのだ。

人々は愚かにも愛に絶望するーーわたしも絶望したーー人々は、愛はつねに自分たちのうしろにあって、決して自分たちの前にはないというあの考えに支配されて生きている。愛など過去の世紀の話だ、二十歳のときに忘れてしまったと、嘘をついている。愛は輝きを供とし、占い師たちのあらゆる眼からなる世界へのあのまなざしを備えているのに、人々は愛が自分たちのためのものではないということに耐えている。とりわけ、そう仮定することに慣れている。人々は偽りの思い出に足をとられ、自分がいけないのだとはあまり感じないように、それは太古の転落のせいだとするまでになっている。しかし、各人にとっては、未来のどんな時間の約束のなかにも、生の秘密がそっくり含まれている。この秘密は異なる存在のなかで、いつか機を見て姿を現わす力を持っているのである。

この手、なんというとっぴなもの!わたしは一冊の本のもっとも美しいページに、手の星をちりばめる機会を持たなかった人々を憐れに思う。とつじょとして、花が欠乏するのだ。この手を眺めるだけで、人間は自分で知っていると思うものについて、滑稽な評価をしていることがわかる。人間が手について理解していることはせいぜい、手があらゆる意味で、本当にこのうえなく、よくできているということである。このうえなくよいことへと向かうこの盲目の渇望、これは、わたしが考えているような愛、絶対的な愛を説明するのに十分だろう。人間は証言を残し、人間は交代するが、そのときに虚栄が不必要なことを保証する肉体的・精神的淘汰の唯一の原理として、絶対的な愛があるのだ。