遠藤周作『白い人・黄色い人』

『白い人』

「ジャック、ナチズムは政治だぜ。政治は人間の英雄感情や犠牲精神を剥奪する方法をちゃんと知っているんだ。犠牲感情だって、自尊心がなくっちゃ存在しない。だが、この感情はもろく砕いてみせられる。お前、ポーランドのナチ収容所の話をきいているだろ。はじめは、そんな陶酔に酔った闘士が沢山いたらしいな。彼等は、お前と同じように、一人で殺されるのを待っていたらしいな。そこには英雄の孤高、英雄の死という、くすぐったい悦びがあるからな。ところがだ。ヒットラーはちゃんとそれを見抜いていた。奴等を無名のまま集団で殺した。ヒットラーはそんな文学的、感傷的な死に方を彼等に与えてやらなかったのさ」

『黄色い人』

結局、神父さん、人間の業とか罪とかはあなたたちの教会の告解室ですまされるように簡単にきめたり、分類したりできるものではないのではありませんか。そしてぼくが今夜これをしたためた動機を、白人流のお考えから、ぼくが罪の悔いの意識にかられ、一種の虚無感にうちまけ、そして人間のかなしさに祈らざるをえなくなったなどとおとりにならないで下さい。黄色人のぼくには、繰り返していいますがあなたたちのような罪の意識や虚無などのような深刻なもの、大袈裟なものは全くないのです。あるのは、疲れだけ、ふかい疲れだけ。ぼくの黄ばんだ肌の色のように濁り、湿り、おもく沈んだ疲労だけなのです。

布教以来十二年、今日はじめて私は異邦人の(つまり神を知らざりし者達の)倖せを知った。倖せかどうか、私は断言できない。だがキミコは昨日の千葉とよぶ青年たちの持つあの黄色人特有の細長い濁った眼の秘密だけはわかったような気がする。にぶい光沢をたたえた彼等の眼は死んだ小禽の眼を思わせる。そのどんよりした視線は私たち白人がなぜか不気味にさえ感ずる無感動なもの、非情なものがあるのだ。それは神と罪とに無感覚な眼であり、死にたいする無感動な眼だった。キミコが時々、唱える、あの「なんまいだ」は私たちの祈りのようなものではなく罪の無感覚に都合のよい呪文なのだ。
窓に顔を押しあてて私はながい間ぼんやりと鉛色の冬空をみていた。陽の光が照っているのか、それとも全くないのか、みわけさえつかぬ重くるしい空だった。これが日本の空だった……。
今日から私は救われるかもしれない。だがそれは私が育った白人の観念とは全く相反した異邦人の方法によってである。あのにぶい情熱のない眼を持ち神を次第に忘れ罪を幾重にも重ねれば、やがて死にも罪にも無感動になることを私ははじめてのように気がついた……。