小林秀雄『様々なる意匠・Xへの手紙』

『様々なる意匠』

われわれにとって幸福なことか不幸なことか知らないが、世に一つとして簡単にかたづく問題はない。遠い昔、人間が意識とともに与えられたことばというわれわれの思索の唯一の武器は、依然として昔ながらの魔術をやめない。劣悪を指嗾しないいかなる崇高なことばもなく、崇高を指嗾しないいかなる劣悪なことばもない。しかも、もしことばがその人心眩惑の魔術を捨てたらおそらく影にすぎまい。

すぐれた芸術は、つねにある人の眸が心を貫くがごとき現実性を持っているものだ。人間を現実への情熱に導かないあらゆる表象の建築は便覧にすぎない。人は便覧をもって右に曲がれば街へ出ると教えることはできる。しかし、坐った人間を立たせることはできない。人は便覧によってうごきはしない、事件によって動かされるのだ。強力な観念学は事件である、強力な芸術もまた事件である。

『文芸批評の行方』

考えてみるとぼくらの知識のうちで、省みて確実に自分のものとなった知識が幾らあるであろう。そういう質問すら教養人は自分に課することを忘却する習慣がついてしまっている。太陽のまわりを地球が回っているという知識はだれでも持っているが、その知識の確実さを保証しているものは、その真理たることを確実に知っている少数の人間がいるというばくぜんたる信仰以外にはない。こういうばくぜんたる信仰がなければ人智は進歩しないということと、この信仰がぼくらの知的努力や知的冒険を鈍らせるように働かざるをえないということとは別だ。ぼくらがになった教養の重荷は、ぼくらを駆って難問に対して武装させ、無邪気な質問に対しては目をつぶらせる。何ゆえ人間は死ぬんだろう、などというう愚問は、文明人はいだいてはならぬのである。

『Xへの手紙』

おれのような人間にも語りたい一つの事と聞いてほしい一人の友は入用なのだということを信じたまえ。