ミヒャエル・エンデ『鏡の中の鏡--迷宮』

そのうち彼は、幕がいつかあがるだろうと信じるのをやめていた。けれども同時にまた、自分の場所をはなれられないということも、わかっていた。つまり、あらゆる予想に反して幕があがる可能性を無視することはできないからだ。希望をいだいたり、腹をたてたりすることは、ずっと昔にやめてしまった。なにが起ころうとも、なにが起きなくとも、彼は、いま立っている場所に、立ちつづけることしかできない。出番となって踊りが成功をおさめようと大失敗に終わろうと、いや、そもそも出番などこなくても、もはやどうでもよくなった。そして踊りがなんの意味ももたなくなってしまったので、すべてのステップ、すべての跳躍を、彼はひとつずつ忘れていった。待っているあいだに、ついに彼は、なぜ待っているのかということさえ忘れた。だが彼は、立脚を休脚を交差させて、立ちつづけていた。眼のまえにはずっしりした黒布があり、その上方を左右は闇に消えている。

なにかが君のまわりで起きている。じょじょにではあるが、ようやく君にわかってくる。これまで親しんでいた世界が、もはや親しいものではなくなっている。君の世界が君に背を向ける。ドーム型ホールに影がおりてくる。飢えた灰色の霧につつまれた姿だ。現われては消えていく大小さまざまの顔だ。興奮し、すばやく走り去る群衆のように、溶けて流れてはまた新たに造られる手足や胴体だ。ソレラは、なにをするのか?何者なのか?どこからやってきたのか?長持ちや戸棚から、時計から、そして石壁からも、要するに、君が自分を安全に守ってくれると思いこんでいたすべてのものから、ソレラは立ちのぼってくる。ソレラはみんな、もはや持続することがない。自分で自分を滅ぼすのだ。

「それ、そんなに大切なことなの?」と妻は興味をもつ。「つまりね、あなた、まだ小さいーーいえ、いずれにしても若いでしょう。作品がみんな理解できるなんて、思うわけ?」
「理解……」と、子どもは肩をすくめる。「そこにどんな見物があるか、知りたいだけなのよ」

「で、あんたは、なんでもお見通しのあんたは、なにをさがしてるんだ?」
「わがはいがさがしているのは、平衡する力さ」
「いったいそいつをなくしたのかね?手にいれたのかね?」
「いつでもなくしては、いつでもまた新しく手にいれる。それがわがはいの商売なのさ。みんはそれをダンスと呼んでいるがね。それを手にいれた日には、わがはいは終わりだ」

「怖さなんてのを知ってりゃ、希望だってもてるんですがね」とジンはつぶやく。

道路掃除夫はふたたびうなずく。「まったく結構。それがほんとうでないとは、言わん。正しい方法を心得ている者が語って聞かせるとき、童話は全部ほんとうだ。けれどもな、ほれ、それはいつだって勝利者の物語にすぎん。いずれにしても、めでたしめでたしで終わるじゃろ。だが敗北者の物語もまたほんとうだ。ただそれはすぐに忘れられる。もしかしたら敗北者が自分で忘れるからかもしれんが。だからそういうことになる」
「敗北者?」と少年はたずねて、さらにもうすこし近くによる。「そんなこと、聞いたことがない!ほんとうにそんな物語があるの?」
老人は手を伸ばして、少年の頬をなでようとするが、少年はそっけない素振りで避ける。道路掃除夫はすまなさそうに微笑する。
「どうやらわしの見るところ」と彼はしわがれ声で言う。「あんたの知ってる物語は、じつはたったの一種類じゃ、なあ坊や、謎を解くことができる百番目の王子の物語だけなんだ。だがその王子のめの九十九人の物語は知らんのじゃ。連中は謎が解けないので破滅する。で、その連中の物語のほとんどが、ここの通りで終わるんじゃ」