セネカ『怒りについて』

『摂理について』

お前たちには、必ず常にあり続ける善を与えた。それは、繰り返し反省し、点検するほど、より善く、より大きくなる。お前たちには、恐るべきものを軽んじ、快楽を厭うことを認めた。お前たちは外面で輝きはしない。お前たちの善は、内面に向けられている。それはまさに、宇宙がみずからの光景を喜び、外部を軽んじたのと同じだ。私はいっさいの善を内に置いた。お前たちの幸せは、幸せが要らないことだ。
「けれども、つらくて恐ろしくて、耐えがたいことが数多起きています」。だから、お前たちからそうしたことを取り除くことはできなかったから、私はお前たちの精神に、あらゆることに抗すべく武具をまとわせてやったのだ。逞しく耐えよ。ここでお前ったいは、神をも凌ぎうる。彼は受難の外にある。お前ったいは受難を凌駕するのだ。窮乏を軽蔑せよ。誰も生まれた時ほど貧しく生きはしない。苦難を軽蔑せよ。それは解かれるか、解くかにすぎない。死を軽蔑せよ。お前たちを終わらせるか、移すかにすぎない。運命を軽蔑せよ。精神を撃てる武器は運命に何一つやらなかった。
何より先に、私は、誰かがお前たちを不本意のうちに留め置くことがないよう配慮した。出口は開いている。戦いたくないなら、逃げるがいい。そのため私は、お前たちに不可避だとみなしたあらゆることで、死より簡単なことは作らずにおいた。

『賢者の恒心について』

人は、たとえ誰を害していなくても加害者になりうる。夫が自分の妻を人妻と思って抱くのなら、妻は姦婦にならないが、彼は姦夫になる。誰かが私に毒を盛った。だが、食物に混ぜたことで効力を削いでしまった。たとえ害さずとも、毒を盛ることでわが身に罪を招いたのだ。凶刃の一撃が服に妨げられて逸れた時でも、強盗であることは変わらない。およそ犯罪は、遂行の結果以前に、犯意が十分であるかぎり、すでに完了しているのである。

『怒りについて』

怒りが自然に即しているかどうかは、人間を観察してみれば明白だろう。心のあり方が健全であるかぎり、人間より穏やかなものがどこにあろう。だが、怒りより過酷なものがどこにあろう。人間以上に他者を愛するものがどこにあろう。怒り以上に憎むものがどこにあろう。人間は相互の助け合いのために生まれた。怒りは破滅のために生まれた。人間は集合を欲する。怒りは離散を欲する。人間は貢献を欲する。怒りは加害を欲する。人間は見知らぬ人すら援助する。怒りは愛しい者すら苛む。人間は他人のため、進んでみずからを危険にさらす。怒りは危険の中へ、もろともに引き込むまで堕ちていく。だから、この獣じみた危険この上ない悪徳を自然の最善にして完全無欠の業に帰す者ほど、自然を理解していない者がどこにいよう。先にも述べたが、怒りは懲罰に貪欲である。そうした欲望がこの上なく平和な人間の胸にもとから内在するというのは、人間の本性に即したことではありえない。なぜなら、人間の生は互恵と協和から成り、恐怖でなく相互の愛情ゆえに、共同の援助と協定に結び繋がれているからである。

一人一人に怒らないため、すべての人を赦し、人類に宥恕を与えるべきである。誤りを犯しているという理由で若者や年配者に怒るのなら、幼児にも怒らねばならない。やがて誤りを犯すのだから。けれども、いったい誰が、まだ何も見分けられない年頃の子に怒ったりするか。子供であることよりも、人間であることのほうが、より広く、より正当な理由である。

われわれを怒りっぽくしているのは、無知か傲慢である。悪人が悪事をしでかしたところで何の不思議があるか。敵が害をなす、友人を傷つける、息子がぐれる、奴隷がへまをやることの、どこが目新しいというのか。ファビウスは、将軍にとって最も恥ずかしい弁解は「思っていなかった」だ、と言ったものである。私は、人間にとって最も恥ずかしい言い訳だと思う。あらゆる事態を思い、予期しておきたまえ。善き性格にすら、何か残酷なものが現われるだろう。
人間本性が狡猾な心を、忘恩の心を、貪婪な心を、不敬な心を生む。誰か一人の性格を判定するとき、人間一般の性格について思いたまえ。最も喜んでいるとき、最も心配したまえ。あなたにいっさいが平静に思える時ですら、害になるものは存在しないわけではない。休らっているにすぎない。あなたを傷つけるものはいつも存在するのだと思いたまえ。

心に平和を与えようではないか。それをもたらしてくれるのは、健全な勧告のたゆまぬ省察、善き行いの実践、ただ高潔さのみ欲求する真剣な心である。己の心を満足させることを心がけ、世の評価に対して骨折るのはよそう。評価に十分値するかぎり、たとえ悪い評価が来ても気にしないことだ。