サマセット・モーム『月と六ペンス』

芸術は感情の表示であり、感情はすべての人が理解できる言葉で語るものである。

誰だったか忘れたが、人間は魂の救いのために、毎日嫌なことを二つすべきであると推奨した人がった。なかなかの知恵者である。その格言を私は忠実に守っている。というのは私は毎日起きるし、毎日寝ることにしているから。

私が引き出した教訓は、著者たるものすべからく、書くよろこびと、思考の束縛からの解放感の中に、報酬を求めるべきであり、その他のことにはすべて無関心であれ、賞讃も非難も失敗も成功にも平然としているべし、ということだ。

「どうして善良な婦人は退屈な男と結婚するんだろう?」
「だって、頭のいい男は善良な婦人と結婚したがりませんもの」

こういう運命をたどる夫婦は数かぎりなくいるだろう。そしてその人生模様には素朴な優雅さがある。こういう生涯から連想されるのは静かな小川だ、緑の牧場をなだらかに曲がりくねり、快い木々でおおわれ、遂には広大な海へ注ぎ込む、しかし、海があまりにもおだやかで、しーんとして、そしらぬ顔をしているので、急に、なんとなく不安を覚える。その頃ですら私の中に根強くはびこっていたいこじな性質なせいにすぎないのだろうが、そのような生涯、つまり、ほとんどの人が歩むそうした一生が私にはしっくりこなかった。社会的な価値はみとめるし、秩序ある幸福はわかる、しかし、私の血の中にひそむ情熱はもっと波乱に満ちた道を求めていた。そのような安易な喜びはむしろ私に不安を覚えさせるものがあったようだ。もっと危険な一生を過ごしたいという欲望が私の心の中にあった。もし変化さえ得られるならば――変化と、予測をゆるさぬものへの興奮とが得られるならば、鋸の刃のような岩かども、どこにひそんでいるかもしれない浅瀬も覚悟の上だった。

「どうしても描かなくちゃならないんだと言っているじゃないか。自分だってどうにもならないんだ。水に落ちたらうまく泳ごうと下手に泳ごうと、泳ぎ方なんか問題じゃない。とにかく水から出なくちゃならないんだ、さもなけりゃ溺れてしまうだけだ」
彼の声には真の情熱がこもっていた。私は我知らず感動させられた。ある激しい力が彼の中でもがいているのが感じられるようだった。それは何か非常に強力な激しいものが、いわば彼の意志に反して、彼をとらえて離さないという感じだった。だがどうも解せない。彼は本当に悪魔にでも取りつかれたように見えるし、その悪魔がいきなり彼を豹変させ、ずたずたにさいなみそうな気もするが、そのくせ、見たところ普通の人といっこう変わっていない。

「自分でもどうしてそうなったのかわからないんだ。おれはあの絵に、今まさに大きな穴をあけようとしたんだ。ぐっさり突きさそうとして腕を構えていたところなんだ。その時、おれは突然それを見たような気がしたんだ」
「何を見たんだ?」
「絵だよ。芸術品なんだ。おれにはとうてい触れることはできなかった。おれはこわくなった」

人々は美というものを軽く口にする。言葉に対して不感症なので、美という言葉も不用意に使う。そのため美という言葉は力を失ってしまった。そうして美という言葉が表しているものは、無数のくだらない事物とその名を共にしているために、威厳を失ってしまった。人々は服のことも犬のことも鮭のことも「美しい」と言う、そうして本当に「美」と対面した時、これに気がつかなくなっている。無価値な考えを飾ろうとして誤った誇張をするために、人々は感受性を鈍らせてしまっている。時たま霊感を受けた神通力を騙る山師のように、人々は濫用いて力を失ってしまった。ところがこの不撓不屈の道化者のストルーヴは、彼自身の真面目な正直な魂と同じように、正直で真面目な美に対する愛情と理解力を持っている。彼にとって美は、信仰厚き人にとっての神と同じことだ。だからストルーヴは美を見ると、畏れを抱くのだ。

彼の立ち直る見込みは、過去のすべてを考えないようにすることだと思う。今は耐えがたいように見える悲しみも、時がたつにつれて和らげられるように、慈悲深い忘却の助けによって彼が人生の重荷を再び取り上げるようにと私は希望する。彼はまだ若い、あと二、三年もすれば、彼の不幸せのすべてを思い返す時、悲しみの中にも、まんざら不快でもないものが加わるようになるだろう。おそかれ早かれ、オランダで誰か正直な娘と結婚するだろう。そしてきっと彼は幸せになれる。死ぬ迄には、さぞや下手くそな絵をどっさり描くことだろう。そう思うと微笑ましくなった。

「おれには愛なんか要らない。そんな暇はないんだ。愛は弱さだ。おれは男だから、時には女が欲しい。情欲を満足させてしまえば、もう他のことしか考えない。おれは欲望には勝てん。だが憎んでいる。おれの精神を束縛するからな。おれはすべての欲望から解放されて、仕事一本に打ち込めるようになる日が待ち遠しい。何故って、女は愛する以外に能がない。愛というものを馬鹿馬鹿しいほど重要だと考えている。それが人生のすべてだなどと男に思い込ませようとする。愛なんてくだらんものさ。肉欲ならおれにもわかる。それは正常な健康なものさ。だが愛なんて病気だ。女は俺の快楽の道具だ。女共が内助者だの、協力者だの、伴侶だのになりたがるのには、我慢がならんのだ」

彼の絵を見れば、彼の風変わりな性格を理解する糸口がつかめるだろうと想像したのはまちがいだった。今まで以上に驚かされるだけのことだった。ますますもってとりつく島もなかった。私にはっきりわかったように思えたただ一つのことは――といってもこれすら取りとめもない空想にすぎないのかもしれないが――彼は自分に取りついている何かの力から解放されようと、必死にもがいているということだ。しかしその力が何であるか、その解放もどういう道を採るかは、やはりあいまいなままである。我々は誰しもこの世で独りぼっちだ。真鍮の塔に閉じこめられ、合図によって他の人間と通じ合う他はない。しかもその合図は何ら共通の価値を持たないから、その合図の意味は曖昧であり、不確かである。我々は心の宝を他人に知らせようと痛ましい努力をするが、他人にはそれを理解するだけの力がない。そこで我々は肩を並べてはいても、力を合わせることなく、淋しく進む。他の人間をわかることもできず、又他人からもわかってもらえずに。我々は、さながら、ある国に住んでいる人が、そこの言葉が殆どわからないために、心の中ではいろんな種類の美しいこと深遠なことを言いたいと思っていながら、結局は会話の手引き書のおきまり文句しか言えない、頭の中はいろんな考えで沸騰しているくせに、「庭師の叔母の傘が家にあります」くらいしか言えない、そういう人達とそっくりだ。

「君が何故ブラーンシュ・ストルーヴに対する感情に負けてしまったか、今わかるような気がする」と私は彼に言った。
「じゃ、何故だ」
「君は勇気がくじけたんだ。肉体の弱さが心に迄感染したんだ。どのような果てしない渇望が君にとりついたのか知らんが、そのために君は、ある目的地を求めて、危険な孤独の旅に駆りたてられている。その目的地に行き着けば、自分を苦しめている霊から完全に解脱できると思っているんだ。君は、おそらくは存在しないある寺院を求める永遠の巡礼だ。君がどのような不可思議な涅槃の境地を目指しているのか僕にはわからない。君自身にはわかっているのか?君の探し求めているのは多分、『真実』であり『自由』なのだろう、そして君は一瞬こうも思った、『愛』の中でも解脱できるかもしれないと。君の疲れ果てた心は、女の腕の中に休息を求めた。しかしそこにも休息は得られないと悟ると、君はその女を憎んだ。まるで容赦しなかった。何故なら君は君自身にもぜんぜん容赦しない男だからね。そして怖ろしさのあまりその女を殺した。何故なら君はかろうじてまぬがれた危険を思うと、逃れてもなお身震いを禁じえなかったからだ」
ストリックランドは干からびた微笑を浮かべて、髭を引っぱった。
「君はおっそろしくセンチメンタルな奴だなあ」
一週間経ってから、私は偶然、ストリックランドがマルセイユに行ってしまったことを耳にした。彼とはそれっきりもう二度と会わなかった。

小説が非現実的だというのはこの点だ。何故なら、一般的に言って、男にとって愛というものは、一日のうちに起きる他のいろいろな出来事の中の一つの挿話的事件に過ぎない。だから小説の中でこの点に重点を置いて書くことは、それに重要性を与えることになって、実生活に忠実でないことになる。世の中で愛が一番大切だなどという男はごく少ない、しかもそういう男はあまり面白い人物じゃない。この主題に最も興味を抱いている女でさえ、そういう男を軽蔑する。そういう男からおだてられていい気になったり、気をそそられたりはするが、内心くだらない男達だという不安を覚えている。しかし男は、恋愛している短い期間すら、他のことをして気をまぎらす。生計をたてる手段としている職業に注意を向けるし、娯楽に没頭するし、芸術に興味を向けることもできる。大抵の場合、男はさまざまな活動をそれぞれの仕切り部屋に入れておく、そして一時的に他の全部を締め出して一つだけを追求することができる。その瞬間に自分が没頭しているものに全神経を集中する能力がある。その他のものが侵害してくると、うんざりするのだ。愛人としての男女のちがいは、女が一日中愛していられるのに対し、男は時々しか愛せないという点だ。

聖書からの引用句がふと唇の先まで出かかったが、私は控えた。何故なら俗人が牧師の縄張りを荒らすことはいささか冒涜であると牧師方が思うだろうから。二十七年間もホイットスタブルの教区牧師をしていた私のハリー叔父はこういう場合、悪魔でも自分の都合のよいように聖書を引用しようと思えばできるから、と言うのが常だった。ハリー叔父は、一シリングで本場の牡蠣を十三も買えた時代のことを覚えている人なのだ。