村上春樹『羊をめぐる冒険』

「希望というのはある限定された目標に対する基本的姿勢を最も美しいことばで表現したものです。もちろん」と男は言った。「別の表現方法もある。おわかりですね?」
相棒は頭の中で男の科白を現実的な日本語に置き換えてみた。「わかります」

彼は酒を飲みすぎていない限り、どう考えても僕よりずっとまともだった。僕よりずっと親切でナイーブできちんとしたものの考え方をした。しかし遅かれ早かれ彼は酔っ払うことになる。そう考えるのは辛かった。僕よりまともな人間の多くが僕より早く駄目になっていくのだ。

僕は二本目の煙草に火を点け、二杯めのウィスキーを注文した。二杯めのウィスキーというのが僕はいちばん好きだ。一杯めのウィスキーでほっとした気分になり、二杯めのウィスキーで頭がまともになる。三杯めから先は味なんてない。ただ胃の中に流し込んでいるというだけのことだ。

「好意の交換だよ。私は君の共同経営者にPR誌が発行停止になったという情報を好意で提供したんだ。それに対して君が好意を示してくれれば、私もまた君に好意を示す・そう考えてもらえないかな。私の好意は役に立つよ。君だっていつまでも頭の鈍い酔払いと共同で仕事をつづけているわけにもいかないだろう」
「我々は友だちです」と僕は言った。

駅の前に旅行代理店があったので、そこで翌日の札幌行きの飛行機を二席予約した。それから駅ビルに入ってキャンバス地の肩にかける旅行かばんとレイン・ハットを買った。そのたびにポケットに入れた封筒からぱりぱりの一万円札をひっぱり出して勘定を払ったのだが、どれだけ使っても札束はさっぱり減ったようには見えなかった。僕自身が幾らか擦り減っただけだった。世の中にはそういったタイプの金が存在する。持っているだけで腹立たしく、使うと惨めな気分になり、使い切った時には自己嫌悪になる。自己嫌悪になると金を使いたくなる。しかしもうそこには金はない。救いというものがないのだ。

「どうしてワンピースとハイヒールなんて持って来たんだ?」と僕は質問した。
「だってパーティーがあると困るでしょ?」と彼女は言った。

「なんだか昔みたいだな」と鼠は言った。
「きっと我々はお互いに暇をもてあましている時にしか正直に話し合えないのさ」と僕は言った。
「どうもそうらしいいね」
鼠は微笑んだ。漆黒の闇の中で背中あわせになっていても彼の微笑みはわかる。ちょっとした空気の流れと雰囲気だけで、いろんなことがわかる。かつて我々は友だちだったのだ。もう思い出せないほど昔の話だ。
「でも暇つぶしの友だちが本当の友だちだって誰かが言ってたな」と鼠は言った。
「君が言ったんだろう?」
「相変わらず勘がいいね。そのとおりだよ」