カミュ『シーシュポスの神話』

真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。

地球と太陽と、どちらがどちらのまわりをまわるのか、これは本質的にはどっちでもいいことである。ひとことで言えばこれは取るにたらぬ疑問だ。これに反して、多くの人びとが人生は生きるに値しないと考えて死んでゆくのを、ぼくは知っている。他方また、自分に生きるための理由をあたえてくれるからといって、さまざまな観念のために、という幻想のために殺しあいをするという自己矛盾を犯している多くの人びとを、ぼくは知っている(生きるための理由と称するものが、同時に、死ぬためのみごとな理由でもあるわけだ)。だからぼくは、人生の意義こそもっとも差し迫った問題だと判断するのだ。

これまで自殺は社会現象のひとつとしてしか扱われなかった。しかし、いまここでまず問題にしようとしているのは、それとは反対に、個人の思考と自殺との関係である。自殺というこの動作は、偉大な作品と同じく、心情の沈黙のなかで準備される。当人自身もそれを知らない。

思考をはじめる、これは内部に穴があきはじめるということだ。こういう発端に社会はあまり関係していない。蝕み食いあらしてゆく虫は、外部の社会にではなく、ひとの心の内部にいる。ひとの心の内部にこそ、原凶たる虫を捜さなければならぬ。実存に真っ向から向きあった明察から、光の外への脱出へと至り、死をもたらすあの動き、それを追跡し、理解しなければならぬ。

おのれを殺す、これはある意味で、そしてメロドラマでよくあることだが、告白するということだ。生に追い抜かれてしまったと、あるいは生が理解できないと告白することだ。だが、この類比にあまり深入りはすまい、そして、普通よく使われる言い方に戻ることにしよう。そう、おのれを殺すとは、《苦労するまでもない》と告白すること、ただそれだけのことにすぎない。もちろん、生きるのはけっして容易なことではない。ひとは、この世に生存するということから要求されてくるいろいろな行為を、多くの理由からやりつづけているが、その理由の第一は習慣というものである。みずから意志して死ぬとは、この習慣というもののじつにつまらぬ性質を、生きるためのいかなる深い理由もないということを、日々の変動のばかげた性質を、苦しみの無益を、たとえ本能的にせよ、認めたということを前提としている。

たとえ理由づけがまちがっていようと、とにかく説明できる世界は、親しみやすい世界だ。だが反対に、幻と光を突然奪われた宇宙のなかで、人間は自分を異邦人と感じる。この追放は、失った祖国の想い出や約束の地への希望を奪われている以上、そこではすがるべき綱はいっさい絶たれている。人間とその生との、俳優とその舞台とのこの断絶を感じとる、これがまさに、〔なんとも筋道のとおらぬ、およそ理というものに反したという感覚〕不条理性の感覚である。自殺を想ったことのある健康人ならだれでも、これ以上説明をしなくても、この感覚と虚無への熱望とのあいだには直接のつながりがあると認めることができるであろう。

不条理という言葉のあてはまるのは、この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、この両者がともに相対峙したままである状態についてなのだ。不条理は人間と世界と、この両者から発するものなのだ。

まったく教訓的だと思えるひとつの明々白々たる事実がある。人間はつねに自分が真実と認めたもののとりこになってしまうということだ。なにかをひとたび真実と認めてしまうと、人間はなかなかそれから自由になれない。なにかを真実と認めたのだから、すこしはそれに相応する苦労をしなければいけない。不条理を意識するにいたった人間は、いつまでも不条理に縛りつけられる。希望をもたず、しかもそのことを意識している人間は、もはや、未来からしめだされている、これは理の当然だ。だがまた、かれがみずから創造した宇宙から逃げだそうと努力するのも、当然のことなのである。

神の怒りに対して、かれはただひとつの返答しかもたぬ。それは人間の名誉だ。

演劇では沈黙は聞けるものでなければならぬ。現実では低くささやかれる愛の言葉も、ここでは語調が高まり、じっと身動きもしないことでさえ、舞台上にくっきりと浮かびあがるものとなる。身体がいっさいの上に君臨する王なのだ。

思考するとは、なによりもまず、ひとつの世界をつくることだ(あるいは、結局同じことになるが、自分の世界を限定することだ)。それは、人間と経験とを引きはなしている根源的な食いちがいから出発して、人間の郷愁にのっとった協調の場、耐えがたい背反状態の解消が可能になるような、理性的説明に固められた宇宙、あるいはかずかずの類比によって照らしだされた宇宙を見いだそうとすることだ。

説明への誘惑がこの上なくつよく迫ってくるこの小説創造の過程で、この誘惑を乗り超えることができるのだろうか。この小説という虚構の世界は、現実世界の意識がこの上なくつよく働く世界だが、そのなかで、はたしてぼくは不条理への忠実な姿勢をつらぬきつづけ、結論を出したいという欲求に身をまかせずにいるということができるだろうか。

ドストエフスキーの主人公たちは、だれもが、人生の意義について自問している。その点でかれらは現代人だ。つまり、かれらは滑稽になることをおそれない。現代的感受性と古典的感受性とのちがいは、古典的感受性は道徳的問題にyとって養われるが、現代的感受性は形而上学的問題によって養われるという点にある。ドストエフスキーの小説では、人生の意義如何という問いは、極限的な解答、――人間の生存は虚妄であるか、しからずんば永遠であるか、そのどちらかだという極限的な解答しかありえないほど激烈な調子で提起される。もしドストエフスキーがこの問題の検討だけで満足していたら、かれは哲学者となったであろう。しかしかれは、こうした精神活動が人間の生活のなかでもちうるさまざまな帰結を明示する、この点でかれは芸術家なのである。

こうしたわけで、ぼくはいま気づくのだ、希望を永久に回避することはできない、希望から身をふりほどこうと願っていた人びとにまで、希望が襲いかかってくることがありうるのである。