ヘルマン・ヘッセ『デミアン』
私がはいっていったとき、私のくつのぬれているのを父がとがめたのは、ありがたいことだった。それでわき道にそれ、父はもっと悪いことに気づかなかった。私はこごとを忍びながら、それをひそかにほかのことに結びつけた。すると、奇妙な新しい感情が心の中にきらめいた。それはとげに満ちた悪い鋭い感情だった。つまり私は父に対して優越感をいだいたのだった。私は父のうかつさに対し一瞬間あるけいべつを感じた。
「ぼくたちがおそわるたいていのことは、たしかにほんとで正しい。だが、どんなことでも先生とは違った見方をすることができる。しかも、そうすると、すべてのことがたいていずっとまさった意味を持つようになる」
まだ十一歳にもならない子どもがそんなふうに感じることができる、などと信じない人が少なくないことを、私は承知している。そういう人に私の身の上のことを話しているのではない。もっと人間をよく知っている人に話しているのだ。自分の感情の一部を思想に変えることを学んだおとなは、子どもにはこの思想が欠けていると思い、子どもには体験などもないと考える。私はしかし一生のあいだあの当時ほど深く体験し悩んだことはごくまれにしかない。
(満員の教室のみじめくさい救貧院めいた空気のただ中で、朝デミアンの背首からただよって来る柔らかくさわやかなシャボンのにおいを、どんなに喜んで吸いこんだか、私はいまだにおぼえている!)
「きみがだれかに対しなにか思いを通そうと思ったら、だしぬけに相手の目をじっと見つめることだ。相手が全然平気だったら、断念したまえ!その男に対してはなにもしとげることはできない、けっして!だが、そういうことはきわめてまれだ。実際いうと、ぼくにとってその手でうまくいかない人は、たったひとりしかない」
「それはだれさ?」と、私はすぐにたずねた。
彼は、考えこむときにする、いくらか細めた目で私を見つめた。それからよそを向いて、返事ををしなかった。私は激しい好奇心を覚えたが、問いを繰り返すことはできなかった。
しかし、彼はそのとき彼の母のことを言っていたのだ、と私は思う。――彼は母親と非常に情愛の深い生活をしているらしかったが、母親のことを私に話したことも、私を家に連れて行ったことも、一度もなかった。彼の母がどういう様子の人か、私はほとんど知らなかった。
そのときからすべてが変わってきた。幼年時代は私の身辺から崩壊し去った。両親は一種の当惑をもって私をながめた。姉たちはすっかり私にうとくなった。一種の覚醒が私のなじんでいた感情や喜びをゆがめ、色あせさせてしまった。庭はかおりを失い、盛りは誘わず、身辺の世界は古物の見切り売りのように味気と魅力をなくした。書物は紙になり、音楽は騒音となった。さながら秋の木のまわりに葉が落ちるようだ。木はそれを感じない。雨が木にそって滴り落ちる。あるいは日光が、あるいは霜が。木の中では生命が徐々にいちばん奥の窮屈なところに引っ込んでしまう。木は死にはしない。木は待っているのだ。
わたしの心の中はまずこういう状態だった!うろつきまわりながら世の中をけいべつしていた私が!高慢な精神を持って、デミアンの勧化を共にいだいていた私が!その私がこういうありさまだった。ならず者で不潔漢で、酔っぱらって汚れ、いとわしく下品で、鼻持ちならぬ衝動のふい打ちに負かされた、すさんだ人非人!わたしはそういうふうに見えたのだ。すべてが清浄と輝きと親切なやさしさであった、あの庭からやって来た私、バッハの音楽と美しい詩を愛していた私が!なお嫌悪と憤りをもって、私は、自分自身の笑いを、酔っぱらって自制のない、発作的なまぬけに吐き出される笑いを聞いた。それが私だった!
しかしそれにもかかわらず、この苦悶に悩むのはほとんど一つの享楽だった。非常に長いあいだ、私は盲目的に活気なくはい歩き、私の心は沈黙し、貧しくなってすみっこにうずくまっていたので、この自己弾劾や戦慄やいとわしい感情も、精神にとっては歓迎された。その中にはなんといっても、感情があり、炎が燃え上がり、心臓が鼓動していた。私は思い乱れながら、みじめさのただ中で、解放と春のようなあるものを感じた。
その絵は私に似ていなかった――似るはずもない、と私は感じた。――しかし、それは私の生命をなしているものだった。それは私の心、私の運命、あるいは私の精霊だった。私がいつかまた友だちを見つけるとしたら、私の友だちはそういう様子をしているだろう。私がいつか愛人を得るとしたら、私の愛人はそういう様子をしているだろう。私の生も死もそのとおりであるだろう。それが私に運命の響きであり、リズムであった。
「鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。鳥は世界に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという」
愛はもはや、私がはじめ悩ましく感じたように、動物的に暗い衝動ではなかった。それはまた、私がベアトリーチェの姿にささげたような、敬虔に精神化された崇拝でもなかった。愛はその両者であり、さらにそれ以上であった。それは天使と悪魔、男と女とを一身に兼ね、これを味わうことが自分の運命であるように思われた。私はこの運命に対しあこがれを持ち、また不安をいだいた。しかしそれは常に眼前に存在し、常に私の上にあった。
いままで自分の本来の生活の目標を目ざして進んで来た途上で見いだした少数の経験に、この新しい経験が加わった。すなわち、そういう形象の観察、自然の非合理的な入りくんだ不思議な形への没頭は、私たちのうちに、そういう形象を生ぜしめた意志と私たちの心との一致の感情を起こさせた。――私たちはまもなく、そういう形象を自分のむら気、自分の作りものと考える誘惑を感じる。――また、自分と自然とのあいだの限界が震え溶けるのを見る。そして、私たちの網膜に映るさまざまの形が、外部の印象から発しているのか、内部の印象から発しているのか、わからないような気分を知るようになる。私たちは、この練習の場合ほど単純容易に、どんなに自分たちが創造者であるか、どんなに自分たちの魂がたえず不断の創造に干与しているか、という発見をすることはない。むしろ、私たちの内で働いているのと自然の内で働いているのとは、同一不可分な神性である。外界の世界が滅ぶようなことがあったら、私たちのうちのひとりが世界を再建することができるだろう。なぜなら、山や川、木の葉、根や花など、自然界のいっさいの形成物は、私たちの内部に原型を持っており、永遠を本質とするところの魂から発しているからである。私たちはその魂の本質を知らないが、それはおおむね愛の力や創造者の力として感じられるのである。
「われわれがだれかを憎むとすれば、そういう人間の形の中で、われわれ自身の中に宿っているものを憎んでいるのだ。われわれ自身の中にないものは、われわれを興奮させはしない」
「さあ家へ帰りたまえ。だれにもなにも言わないことだ。きみはまちがった道を歩んだ。まちがった道をだよ!ぼくたちは、きみの考えるように、豚じゃない。ぼくたちは人間だ。ぼくたちは神々を作り、それと戦うのだ。神々はぼくたちを祝福する」
その日から私はその家に出入りした。息子であり兄弟でもあるように、だが、恋人でもあるように。――門をうしろにしめると、いや、遠くから庭の高い木が見えてくると、もう私は豊かに幸福だった。外には「現実」があった。外には街路と家があり、人がおり、いろいろな施設、図書館、講堂があった――それに引きかえ、ここには愛と魂があり、ここにはおとぎ話と夢とが生きていた。しかし世間から絶縁してはいなかった。
――彼は愛して、それによって自分自身を見いだした。これに反し、大多数の人は愛して、それによって自分を失うのである。
「シンクレール、よく聞きたまえ!ぼくは去らなければならないだろう。きみはおそらくいつかまたぼくを必要とすることがあるだろう、クローマーに対して、あるいはほかのものに対して。そのとき、きみがぼくを呼んでも、ぼくはもうそうむぞうさに馬や汽車でかけつけはしない。そのときはきみは自分の心の中を聞かなければならない。そしたらぼくはきみの中にいることに気づくよ。わかるかい?――それからもう少し言うことがある。エヴァ夫人が言った、きみがいつか逆境にいることがあったら、彼女がぼくのはなむけにしてくれたキスをきみにしてあげておくれって……目を閉じまえ、シンクレール!」
私はすなおに目を閉じた。たえず血が少しずつこやみなく出て来るくちびるに軽いキスを感じた。それからわたしは眠りこんだ。
包帯するのは痛かった。その以後私の身に関して起こったことは、すべて痛かった。しかしときおり、手がかりを見つけて、自分の心の中に――深くさがって行くとき、私はただ黒い鏡の上にかがみさえすればよい。そうすれば、自分自身の姿が――いまはまったく彼に、私の友であり導き手である彼に似ている自分自身の姿が、見えるのである。