夏目漱石『吾輩は猫である』

人間の心理ほど解し難いものはない。この主人の今の心は怒っているのだか、浮かれているのだか、また哲人の遺書に一道の慰安を求めつつあるのか、ちっとも分らない。世の中を冷笑しているのか、世の中へ交りたいのだか、くだらぬことに癇癪を起しているのか、物外に超然としているのだかさっぱり見当が付かぬ。猫などはそこへゆくと単純なものだ。食いたければ食い、寝たければ寝る、怒るときは一生懸命に怒り、泣くときは絶体絶命に泣く。第一日記などという無用のものは決してつけない。つける必要がないからである。主人のように裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されない自己の面目を暗室内に発揮する必要があるかもしれないが、我ら猫属に至ると行住坐臥、行屎送尿ことごとく真正の日記であるから、べつだんそんな面倒な手数をして、己れの真面目を保存するには及ばぬと思う。日記をつけるひまがあるなら縁側に寝ているまでのことさ。

「いいえ。なんだか混雑して要領を得ないですよ。つまるところ天璋院様のなんになるんですか」「あなたもよっぽど分らないのね。だから天璋院様の御祐筆の妹のお嫁に行った先きのおっかさんの甥の娘なんだって、先っきっから言ってるんじゃありませんか」「それはすっかり分っているんですがね」「それが分りさえすればいいんでしょう」「ええ」と仕方がないから降参をした。吾々は時とすると理詰の虚言を吐かねばならぬことがある。

吾輩は大人しく三人の話を順番に聞いていたが可笑しくも悲しくもなかった。人間というものは時間を潰すためにしいて口を運動させて、可笑しくもないことを嬉しがったりするほかに能もないものだと思った。吾輩の主人の、我儘で偏狭なことは前から承知していたが、平常は言葉数を使わないのでなんだか了解しかねる点があるように思われていた。その了解しかねる点に少しは恐ろしいという感じもあったが、今の話を聞いてから急に軽蔑したくなった。彼はなぜ両人の話を沈黙して聞いていられないのだろう。負けぬ気になって愚にもつかぬ駄弁を弄すればなんの所得があるだろう。エピクテタスにそんなことを為ろと書いてあるのかしらん。要するに主人も寒月も迷亭も太平の逸民で、彼らは糸瓜のごとく風に吹かれて超然と澄まし切っているようなものの、その実は、やはり娑婆気もあり欲気もある。競争の念、勝とう勝とうの心は彼らが日常の談笑中にもちらちらとほのめいて、一歩進めば彼らが平常罵倒している俗骨どもと一つ穴の動物になるのは猫より見て気の毒の至りである。ただその言語動作が普通の半可通のごとく、文切り形の厭味を帯びてないのはいささかの取り得でもあろう。

例によってとはいまさら解釈する必要もない。しばしばを自乗したほどの度合を示す語である。一度遣ったことは二度遣りたいもので、二度試みたことは三度試みたいのは人間にのみ限らるる好奇心ではない、猫といえどもこの心理的特権を有してこの世界に生れ出でたものと認定していただかねばならぬ。三度以上繰り返す時はじめて習慣なる語を冠せられて、この行為が生活上の必要と進化するのもまた人間と相違はない。

なんのために、かくも足繁く金田邸へ通うのかと不審を起すならそのまえにちょっと人間に反問したいことがある。なぜ人間は口から烟を吸い込んで鼻から吐き出すのであるか、腹の足しにも血の道の薬にもならないものを、恥かし気もなく吐呑して憚らざる以上は、吾輩が金田に出入するのを、あまり大きな声で咎め立てをしてもらいたくはない。金田邸は吾輩の烟草である。

「僕も寒月君に賛成する。僕の考では人間が絶対の域に入るには、ただ二つの道があるばかりで、その二つの道とは芸術と恋だ。夫婦の愛はその一つを代表するものだから、人間はぜひ結婚をして、この幸福を完うしなければ天意に背くわけだと思うんだ。――がどうでしょう先生」と東風君は相変わらず真面目で迷亭君の方へ向き直った。
「御名論だ。僕などはとうてい絶対の境にはいれそうもない」
「妻を貰えば、なおはいれやしない」と主人はむずかしい顔をして言った。

「探偵といえば二十世紀の人間はたいてい探偵のようになる傾向があるが、どういうわけだろう」と独仙君は独仙君だけに時局問題には関係のない超然たる質問を呈出した。
「物価が高いせいでしょう」と寒月君が答える。
「芸術趣味を解しないからでしょう」と東風君が答える。
「人間に文明の角が生えて、金平糖のようにいらいらするからさ」と迷亭君が答える。

「今の人の自覚心というのは自己と他人の間に截然たる利害の鴻溝があるということを知りすぎているということだ。そうしてこの自覚心なるものは文明が進むに従って一日いちにちと鋭敏になってゆくから、しまいには一挙手一投、足も自然天然とはできないようになる。ヘンレーという人がスチーヴンソンを評して、彼は鏡のかかった部屋に入って、鏡の前を通るごとに自己の影を写して見なければ気が済まぬほど、瞬時も自己を忘るることのできない人だと評したのは、よく今日の趨勢を言いあらわしている。寝てもおれ、覚めてもおれ、このおれが至る所につけまわっているから、人間の行為言動が人工的にコセつくばかり、自分で窮屈になるばかり、世の中が苦しくなるばかり、ちょうど見合をする若い男女の心持ちで朝から晩までくらさなければならない。悠々とか従容とかいう字は画があって意味のない言葉になってしまう。この点において今代の人は探偵的である。泥棒的である。探偵は人の目を掠めて自分だけうまいことをしようという商売だから、いきおい自覚心が強くならなくてはできん。泥棒も捕まるか、見付かるかという心配が念頭を離れることがないから、いきおい自覚心が強くならざるを得ない。今の人はどうしたら己れの利になるか、損になるかと寝ても醒めても考えつづけだから、いきおい探偵泥棒と同じく自覚心が強くならざるを得ない。二六時中キョトキョト、コソコソして墓に入るまで一刻の安心も得ないのは今の人の心だ。文明の呪詛だ。馬鹿馬鹿しい」
「なるほど面白い解釈だ」と独仙君が言い出した。こんな問題になると独仙君はなかなか引込んでいない男である。「苦沙弥君の説明はよく我意を得ている。昔の人は己れを忘れろと教えたものだ。今の人は己れを忘れるなと教えるからまるで違う。二六時中、己れという意識をもって充満している。それだから二六時中太平の時はない。いつでも焦熱地獄だ。天下に何が楽だといって己れを忘れるより薬なことはない。三更月下入無我とはこの至境を詠じたものさ」

「とにかくこの勢で文明が進んで行ったひにゃ、僕は生きてるのはいやだ」と主人がいい出した。
「遠慮はいらないから死ぬさ」と迷亭が言下に道破する。
「死ぬのはなおいやだ」と主人がわからん強情を張る。
「生れる時には誰も熟考して生れるものはありませんが、死ぬ時には誰も苦にするとみえますね」と寒月君がよそよそしい格言をのべる。
「金を借りるときにはなんの気なしに借りるが、返す時にはみんな心配するのと同じことさ」とこんな時にすぐ返事のできるのは迷亭君である。
「借りた金を返すことを考えないものは幸福であるごとく、死ぬことを苦にせんものは幸福さ」と独仙君は超然として出世間的である。

「死ぬことは苦しい、しかし死ぬことができなければなお苦しい。神経衰弱の国民には生きていることが死よりもはなはだしき苦痛である。したがって死を苦にする。死ぬのが厭だから苦にするのではない、どうして死ぬのがいちばんよかろうと心配するのである。ただたいていのものは知恵が足りないから自然のままに放擲しておくうちに、世間がいじめ殺してくれる。しかし一と癖あるものは世間からなし崩しにいじめ殺されて満足するものではない。必ずや死に方について種種考究の結果、斬新な名案を呈出するに違いない。だからして世界向後の趨勢は自殺者が増加して、その自殺者がみな独創的な方法をもってこの世を去るに違いない」

次第に楽になってくる。苦しいのだか難有いのだか見当がつかない。水の中にいるのだか、座敷の上にいるのだか、判然しない。どこにどうしていても差支はない。ただ楽である。否楽そのものすらも感じ得ない。日月を切り落し、天地を粉砕して不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。難有い難有い。