ゴーリキー『二狂人』『乞食』

『二狂人』

「妙なもんだな、人間という奴は達者で無難の時にゃ何でもないが、死にかかると面白くなる。能くあるやつだて、生きてる中にゃ生きてることにも気の付かないほど詰まらん奴でも、ふっと死んだとか、死にかかってるとか聞くと、可哀そうになってその噂をする……死んだり死にかかったりすると、人間と人間との間が接近するようだな。此処に何でも深い意味があるに違いない。でなきゃ、大偽善が潜んでるのだ、ただ昔から慣れっこになってるので、誰も気が付かずにいるのだ。それとも何かしら、人の死ぬのを見ていると、自分もいつか一度は死ななきゃならんことを想い出して、それで他を憐れむは即ち自ら憐れむ所以という訳かしら?してみると、こいつは狡猾の分子を含んでいる、寧ろ卑劣だ。しかし人間界の事は総て狡猾で卑劣だからな……だから同情というやつは残忍なものだ。慈悲にして且つ残忍か。やれやれ!とはいうものの、全く同種の言葉だものな、意味から言やシノニムだもの。それを今まで皆が誰も気が付かずにいるとは驚く。こいつあ一番論文を書いてやらなきゃ。一廉でも間違いの減った方がいい」

狼狽てて振り返って見ると、クラフツォフが枕に肘を杖いて、両手で頤をおさえ、寝台から此方を観ていた。きん衝を起していると見えて、眼中が異しく光り、あくどい嘲笑の色を一杯浮かべている。それに髭は気味悪く躍る、眉は次第に釣り上がって箒のように逆立って頭の髪に逼る、唇は捩じ曲がって苦笑いを浮かべ鼻の孔はひこつき、顔中が間断なく揉めて、其処此処に皺の波が寄る、というもので、どうしても満足の人間の面でない、不気味な相好だ。
「これだ、これが狂人だ!」とヤロスラーフツェフは思う。と、この新規な考えに消壓とされて、今まで気を痛めていた事が跡形もなくなる。
フウと外へ太い息を吐いた。今までは血の通いの止まるほど怖ろしくて、それにばかり気を取られていたのが、それが急にケロリとなる。クラフツォフの相好の崩れた面を見ていると、なんとも言えず愉快だ。之を視れば視るほど、自分の正気なことが明らかになって、気が安まる。「これが狂人というものだ!」と腹の中で歓呼の聲を挙げて、「此様な面は滅多にない。昔ある聖者が悪魔の洗面器にいる所をとっつかまえて、十字を切ってその中へ封じ込めて了ったという話がある。此様な面をしているのは、まあ、その悪魔くらいのものだ……」

「クラフツォフ君!」とヤロスラーフツェフは嬉しそうに、優しく、諭すように、「君は僕を覚えているかね?」
「貴様を?覚えているかと?馬鹿言え!貴様達は忘れたいって忘れられる人間じゃない。何処へ行ったって、貴様達のいない処はないや……貴様達は蝿よ、油蟲よ、蜱よ、蚕よ、塵芥よ、壁石よ!命ぜられりゃ、如何なにでも姿を変えて、何にでも成らあ、而して種々な事を調べらあ……人間が何を、どう、何の目的で考えてるって、一々調べらあ。しかし、何と言っても貴様達はけちさ!己はえらいぞ!大望の火を不断胸に焚いてるからな。だから、今に己は、モーゼがイスラエルの子孫をエジプトから導き出したように、人間を此の世から導き出してみせる。此の世は下水溜だ。その下水溜の中で息をして、貴様達は結構だと思ってるのだ。そこで己が導き出す、而して聖約の地へ行く。聖約の地というのはな、空気が清すぎて、貴様達なんぞは活きていられん処だぞ。其処へ行って、己がカスタルの自由の泉の水を吾兄弟に飲ませて、彼等を鼓舞して創造的生涯に入らせる……大事業を始めるのだ……一切の罪人を赦して人類を改造するのだ!ところへ貴様達がエジプト人の二の舞をやって、跡を追っかけてくる、而して貴様達自身の汚れの海に陥って、溺れて滅びる。爾等自身に死を宿せばなりだ!」
「何を饒舌ってるんだろう?」とヤロスラーフツェフは思った。クラフツォフが威張って怒鳴るのを聞いていると、段々興が醒めていく。相手の眼は爛々と鋭く煌いて、之を見ると、真っ赤に焼けた針のような物で、顔や胸をチクチクと刺されるような気がする。

「人を威かしちゃいかんが、探偵は須らく威かすべしだ。何故君は探偵なんぞになった?何故僕の考えてる事を調べに来た?僕はただ考えてるばかりだよ。考えて害があるなら、僕一人その害を受けるばかりだ。外の者に迷惑は及ばん。考えるという事は特志がなきゃ出来ん事だ。何故なら、人間は考えると自滅する。他人はその人を殺すに、一文だって金を遣う必要はない」

『乞食』

「そうよ、世界は自然とそう出来てるんだ。みんな元は土で、土は埃で。而して土の上の物はみんな死ぬのだ……何と不思議じゃねえか!だから人間は何でも文句を言わずに稼がねえじゃいけねえ。な、己ももうじきお迎えが来るだろうが……」と、話が飛んで、祖父は悲しそうに、「己が死んだら、お前どうする?」
またお株が始まった。この死んだら話はもう聞き厭きるほど聞かされているから、レンカは何も言わずにあちら向いて、小草を摘んで、口へ入れて、そろりそろりと噛んだ。

「世間にゃ乞食を人間のように思ってる奴は一人だって有りゃしねえ。十年も貰って歩いてるから、己よく知ってら。パン一片千両もするように、呉れりゃすぐともう極楽の門が開くように思ってやがる。それもなんで呉れるんだと思う?皆うぬが気休めの為で、慈悲でも何でも無えのだ。パン一片人の口へ押し込んどきゃ、うぬが食うのに気が射さねえ。だから食物に不自由のねえ奴はみんな鬼よ。ひもじい思いをしてる者があったって、怪我にも可哀そうだた思っちゃ呉れねえ。腹の満い者と空腹の者とは仇敵同士で、いつが世にもお互いに目障りでならねえから、心意気だって通じっこは無えし、可哀そうとも思われねえのだ。腹の満い者から見りゃ、乞食はただ汚ねえばかしよ」
心細いのに忌々しいのが添うて、祖父の気は上ずった、唇がわななき、老いの濁った爛れ眼が、赤い睫毛の影で頻りにしょぼつき、どす黒い顔の皺が一段と深くなった。