大江健三郎『われらの時代』『戦いの今日』『人間の羊』

『われらの時代』

おれたちは自殺が唯一の行為だと知っている、そしておれたちを自殺からとどめるものは何ひとつない。しかしおれたちは自殺のために跳びこむ勇気をふるいおこすことができない。そこでおれたちは生きてゆく、愛したり憎んだり性交したり政治運動をしたり、同性愛にふけったり殺したり、名誉をえたりする。そしてふと覚醒しては、自殺の機会が眼のまえにあり決断さえすれば充分なのだと気づく。しかしたいていは自殺する勇気をふるいおこせない、そこで偏在する自殺の機会に見張られながらおれたちは生きてゆくのだ、これがおれたちの時代だ。

『戦いの今日』

何というむなしいばか騒ぎ、とかれは上機嫌で考えた。死ぬほど思いつめて、歯をくいしばっての空騒ぎ。ほんとうにおれたちの日常には何も異常な事件はおこらないのだ。おれたちは切実な限界状況からまったく隔絶されている。おれたちは安全な保育設備のなかで育つ赤ちゃん同然、どちらへころんでもかすり傷ひとつおわない。その考えはつねにかれを苦しめ、かりたてる苦い考えだったが、今は幸福な虚脱感と一緒にそれがやって来ていた。かれは立ちどまり、激しい陽の光を吸収するためのようにそこへ開いている暗渠の露出部を見おろした。暗い溝から流れ出た野菜屑をふくむ汚水がごくゆるやかな速度で別の穴へ流れこんでいた。かれは内ポケットから汗に濡れて柔らかく重くなったパンフレットをとり出し暗渠へ投げこんだ。あわてふためいたドブ鼠が濡れた鼻に水玉をきらめかして跳びだし、また跳びこんで行った。かれは喉をほてらして笑い、しばらくのあいだそこに立ったままでいた。

『人間の羊』

警官の眼が硬くひきしまり僕の躰じゅうをすばやく見まわした。僕は彼が、打撲傷や切傷を僕の皮膚の上に探そうとしているのがわかったが、それらはむしろ僕の皮膚の下にとどこおおっているのだ。そしてそれらを僕は他人の指でかきまわされたくなかった。