サルトル『一指導者の幼年時代』『奇妙な友情』

『一指導者の幼年時代

みんなが、かわいいお嬢ちゃん、っていうだろう。たぶん、もう、ぼくは女の子なのだ。彼は気持ちがとてもやさしくなるような気がしたが、そのためにほんのすこし、胸がむかつくくらいだった。そして、唇から出る声も澄んだものになり、みんない花を差し出すしぐさも雅やかになった。彼は肘の内側のくぼみを吸ってみたくてしかたなかった。彼は考えた。これはまじめではない、と。彼はまじめでないことが、大好きだった。

転んでこぶができたとき、彼はときどき、泣くのをやめて自問した。「ほんとに痛いのかしら」そのとき、彼はもっと悲しく感じ、涙がさらに流れでた。彼がお母様の手を口づけして「ご挨拶申しあげます、奥さん」というと、お母様は彼の髪を掻きまぜて「駄目よ、坊や、おとなをからかってはいけないわよ」といった。彼はほんとうにがっかりした。

彼は孤独な小声が叫ぶのを聞いた。「お母様大好きだ、大好きだ」大きな蒼蝿が唸っていた。それは糞蝿だった。リュシアンは恐かった。――そして強力で腐敗した、禁断の匂いが、静かに鼻の腔を満たした。彼は繰り返した。「お母様大好きだ」しかし、その声は異様なものに思われた。彼は飛びたつばかりの恐ろしさを感じ、一気に客間まで逃げ帰った。その日から、リュシアンはお母様を愛していないことがわかった。彼は良心に咎めは感じなかった。しかし、意地悪な子供でないかぎりは、一生の間、両親を愛しているふりをすべきだと考えていたので、前より更にやさしくした。

しかし彼は神様は嫌いだった。神様はリュシアン自身よりもリュシアンのことをよく知っている。神様はリュシアンがお母様もお父様も好きではなく、おとなしいふりをしていて、夜、寝床で、自分のあそこをいじる、ということを知っているのだ。ぐあいのいいことには、神様はすっかり覚えているわけにはいかない。世界中に小さい子供は、いっぱいいるんだから。

フルーリエ夫人の小型ピストルは戸棚の左の抽出しに入れてあった。夫が一九一四年九月に、戦線に出発する前に、贈り物にくれたものだった。リュシアンはそれを手にして、長い間、指の間でいじくっていた。それは銃身が金で床尾に真珠の張ってある小傑作だった。人びとが存在していないということを説きつけるのに、哲学の論文は期待できない。必要なのは行動、仮象を消滅させて世界の虚無を白日の下に露呈させる、真に絶望的な行為だった。発射。若い肉体が敷き物の上に血塗れに倒れる。紙の上に書きなぐった数語。「ぼくは存在しないので自殺する。そして兄弟らよ、きみたちも無なのだ!」人びとは朝、新聞を読むだろう。彼らは見るだろう。「若者がやった!」そしてみんな、恐ろしい混乱を感じて、自問するだろう。「そしてわたしは?わたしは存在するだろうか?」

彼は顔の上に、ルモルダンの顔にある、無表情さを見たかった。しかし、ガラスはいまだあまり恐くない、かわいい小さな、頑固な顔しか反映していなかった。「髭を立てよう」と彼は決心した。

『奇妙な友情』

ブリュネは微笑する。ムリュはベソをかいて、髪の毛の中に手を入れ、頭をごしごし掻く。ブリュネは自分のからだを石のように感じる。冷たいけれど陽気な石だ。
「五時じゃないか!」とムリュはいった。「どこの収容所だって、くそっ、おれたちのとこみたいに、ひでえバラックはありゃしねえ。ドイツの野郎だって、六時前に起きろなんていわねえのに、五時起きをみんなが承知するとは。これは捕虜収容所じゃなくて、監獄だ」
彼はためらって、なにかことばを探していたが、急に眼を輝かせて、うれしそうな、しっかりした声で、毎朝おきまりの発見を吐きだす。
ファシストの野郎め」
ブリュネはうれしそうに笑っている。彼は、毎朝、くり返されることのどれもが好きだ。寒さ、暗さ、ファシストの野郎。

「さかんに火を燃すね」
「いけないのか」
バラックの部屋ごとに、この石炭を分けたところで、三個ずつくらいにしきゃならねえ」とムリュがどなる。
シュネーデルは答えない。もういっぺん、この男にそのやり口を聞かせなければなるまい。他の者以上にはなにも望まないという頑固さ。これはキリスト教徒的謙譲でさえない。責任逃れの傲慢というものだ。きみはアナーキストにすぎない。彼らが士官になるのを拒絶したために、フランスは戦争に敗れた。インテリのろくでなしのひとりだ。ブリュネは肩をすくめ、ポケットの中に両手を突っ込んで黙っている。暖まったために、眼の奥に残っていた眠りが少々たまってくる。急に明るくなってまぶしい。天上につるしてある電球がついたのだ。シュネーデルは眼をぱちくりさせている。
「六時だ!」

だれでも知っているように、彼らはやりすぎる人間が好きになれないのだ。殉教者はうす気味が悪いのだ。

考えることに、どんな重要性があるか?頭の中にあるだけの考えはゼロだ。内出血にすぎない。真理とは無縁だ。真理とは実行だ。真理は、行動によって証明される。彼が正しければ、それができる。物事の運行を変えることもできれば、党を動かすこともできる。おれはなにもできない。だからおれはまちがっている。彼は歩度を速める。彼は落ちつく。こんなことはみんなたいしたことじゃない。思想、彼はいつだって、みんなと同じように、思想を持っていた。思想は頭脳の活動のかびだ、かすだ。そんなものは気にしなかっただけだ。穴倉にはえるままにしておいた。そこで、こいつをもとの場所に返しておこう。そうすれば万事うまくゆく。彼は戦列に留まろう。規律をまもろう。思想は、恥ずかしい病気のように、一言もふれずに、自分の内にしまっておこう。たいしてひどくはあるまい。ひどくなるはずはない。党に反対して考えるはずがないからだ。思想はことばだ。ことばは党のものだ。党がそれを定義し、党がそれをあたえてくれる。真理と党とはただひとつのものだ。彼は歩く。彼は満足だ。放心している。バラック、顔、空がある。空が眼の中に流れこんでくる。彼の背後で、忘れられたことばが集まって、ひとりでしゃべっている。それがたいしたことがなく、効き目がないなら、なぜおまえの思想の極限まで行かないのか。彼は急に立ち止まる。妙な感じだ。自分をナポレオンと思いこんでいるやつらの中にこんなのがいるにちがいない。彼らは理屈を考えて、自分はナポレオンではないし、ナポレオンなんかになるはずがないと、自分に証明する。そう決めたすぐあとで、その背後から声が聞こえてくる。〈こんにちは、ナポレオン〉と。彼は自分の思想に引きもどされる。それを正面から観察したいと思う。もしソ連が負けたら……

「きょう?無数の奴隷がいて、地球上のいたる所で戦争をやっていてもか?それなのに友情を望むのか?愛情を望むのか?いますぐ人間らしくなろうと望むのか?こんなことがあってもか?ぼくたちは人間じゃないのだ。きみ、まだまだ、だめなんだよ。ぼくたちはにせ者で、はんぱ者で、半分動物さ、ぼくたちのできうることは、将来の、ぼくたちとは違う人間のために、仕事をすることだ」

ブリュネの胸はどきどきと早く打つ。鉄条網だ。彼は考える。便所を目あてにしなくてはならない。そのとき風にのって、レシルとアンモニアの臭いが鼻をつく。彼らは便所に沿ってすべり、汚物の堆積のうしろにしゃがむ。眼前一メートルのところに鉄条網が跳び縄のようにまわって、空気を打っている。まるで夜の噪宴(サバト)だ。二つの夜がある。ひとつは彼らの背後に吹きよせられ、怒り狂う大きな塊りだが、これはもう役に立たない。もうひとつの夜は、じつにたいせつで、味方になってくれ、囲いの向こう側にはじまる、暗い光線だ。ヴィカリオスはブリュネの手を握りしめる。彼らは幸福だ。

彼が雪の中に吐いて、倒れ、黙ってしまう。ブリュネはすわる。彼を引き寄せ、頭をしずかに持ちあげて、腿の上にのせる。彼はどこをやられたのか?彼は背広やシャツの上をさぐってみる。どこもぬれている。雪か、血か。恐怖が彼を凍らす。こいつはおれの手の中で死にかけている。ポケットに手をいれて、懐中電灯を取りだす。向こうでは、大勢が叫んでいる。呼んでいる。ブリュネは平気だ。彼はバネを押す。鉛いろの顔が夜のなかから浮かびあがる。ブリュネはそれを見つめる。彼はドイツの野郎なんか軽蔑している。シャレエも軽蔑している。党をも軽蔑している。この眼を閉じた、うらめしそうな、きらきら光る顔のほかは、なにも重要でない。なにも存在しない。彼はつぶやく。こいつさえ死ななければ。だが彼はヴィカリオスが死ぬことを知っている。絶望と憎しみが、しだいに、この使い荒らされた生涯の過去にさかのぼり、誕生のときまでの全人生を台なしにしてしまう。この絶対の苦悩はどんな人間どもの勝利も消すことはできないだろう。党がこの男を殺したのだ。ソ連が勝っても、人間は孤独だ。ブリュネはうつむいて、ヴカリオスの汚れた髪の毛の中に手を入れる。彼は叫ぶ。この男を恐怖から救いだせるかのように。二人の絶望的な人間が、最後の瞬間になって、孤独を打ち負かすことができるかのように。
「党なんか、くそくらえだ。きみだけがぼくの友だ」
ヴィカリオスには聞こえない。彼の口は苦しげにごぼごぼいい、泡を吹きだす。その間、ブリュネは風のなかで叫んでいる。
「きみだけがぼくの友だ!」
口が開く。顎がたれ、髪の毛が鳴る。突風が二人を打って、逃げて行く。これが死だ。彼は、この知覚を失った顔の上で、うっとりとしている。同じ死がおれのところへもやってくると思う。ドイツ人たちが木々につかまりながら、坂をおりてくる。彼は立ちあがって、彼らのくる方へ歩きだす。彼の死がはじまったばかりだ。