夏目漱石『道草』

健三は実際その日その日の仕事に追われていた。家へ帰ってからも気楽に使える時間は少しもなかった。その上彼は自分の読みたいものを読んだり、書きたい事を書いたり、考えたい問題を考えたりしたかった。それで彼の心はほとんど余裕というものを知らなかった。彼は始終机の前にこびり着いていた。
娯楽の場所へもめったに足を踏み込めないくらい忙しがっている彼が、ある時友だちから謡のけいこを勧められて、体よくそれを断ったが、彼は心のうちで、他人にはどうしてそんな暇があるのだろうと驚いた。そうして自分の時間に対する態度が、あたかも守銭奴のそれに似通っている事には、まるで気がつかなかった。
自然の勢い彼は社交を避けなければならなかった。人間をも避けなければならなかった。彼の頭と活字との交渉が複雑になればなるほど、人としての彼は孤独に陥らなければならなかった。彼はおぼろげにそのさびしさを感ずる場合さえあった。けれども一方ではまた心の底に異様の熱塊があるという自信を持っていた。だから索漠たる荒野の方角へ向けて生活の路を歩いて行きながら、それがかえって本来だとばかり心得ていた。温かい人間の血を枯らしに行くのだとは決して思わなかった。

姉は肉のない細い腕をまくって健三の前に出して見せた。大きな落ち込んだ彼女の目の下を薄黒い半円形の暈が、だるそうな皮でもの憂げに染めていた。健三は黙ってそのぱさぱさした手の平を見詰めた。

外ではしきりに悪寒がした。舌が重々しくぱさついて、熱のあるようにからだ全体が倦怠かった。枯れは自分の脈を取って見て、その早いのに驚いた。指頭に触れるピンピンいう音が、秒を刻む袂時計の音と錯綜して、彼の耳に異様な節奏を伝えた。

その時細君は別にうれしい顔もしなかった。しかしもし夫が優しい言葉に添えて、それを渡してくれたなら、きっとうれしい顔をする事ができたろうにと思った。健三はまたもし細君がうれしそうにそれを受け取ってくれたら優しい言葉も掛けられたろうにと考えた。それで物質的の要求に応ずべく工面されたこの金は、二人の間に存在する精神上の要求をみたす方便としてはむしろ失敗に帰してしまった。

健三の新たに求めた余分の仕事は、彼の学問なり教育なりにとって、さして困難のものではなかった。ただ彼はそれに費やす時間と努力とを厭った。無意味に暇をつぶすという事が目下の彼には何よりも恐ろしく見えた。彼は生きているうちに、何かしおおせる、またしおおせなければならないと考える男であった。

それでもゴム紐のように弾力性のある二人の間がらには、時により日によって多少の伸び縮みがあった。非常に緊張していつ切れるかわからないほどに行き詰ったかと思うと、それがまた自然の勢いでそろそろ元へ戻ってきた。そうした日和のいい精神状態が少し継続すると、細君のくちびるから暖かい言葉がもれた。
「これはだれの子?」
健三の手を握って、自分の腹の上に載せた細君は、彼にこんな問いを掛けたりした。そのころ細君の腹はまだ今のように大きくはなかった。しかし彼女はこの時すでに自分の胎内にうごめき掛けていた生の脈搏を感じ始めたので、その微動を同情のある夫の指頭に伝えようとしたのである。
「けんかをするのはつまり両方がわるいからですね」
彼女はこんな事もいった。それほど自分がわるいと思っていない頑固な健三も、微笑するよりほかに仕方がなかった。
「離れればいくら親しくってもそれぎりになる代わりに、いっしょにいさえすれば、たとい敵同志でもどうにかこうにかなるものだ。つまりそれが人間なんだろう」
健三は立派な哲理でも考え出したように首をひねった。

健三は正月に父の所へ礼に行かなかった。恭賀新年というはがきだけを出した。父はそれを寛仮さなかった。表向きそれをとがめる事もしなかった。彼は十二、三になる末の子に、同じく恭賀新年という曲がりくねった字を書かして、その子の名前で健三に賀状の返しをした。こういう手腕で彼に返報する事を巨細に心得ていた彼は、なぜ健三が細君の父たる彼に、賀正を口ずから述べなかったかの原因については全く無反省であった。
一事は万事に通じた。利が利を生み、子に子ができた。二人は次第に遠ざかった。やむを得ないで犯す罪と、やらんでも済むのにわざと遂行する過失との間に、たいへんな区別を立てている健三は、性質のよろしくないこの余裕を非常に悪み出した。

「じゃいって聞かせるがね、おれは口にだけ論理をもっている男じゃない。口にある論理はおれの手にも足にも、からだ全体にもあるんだ」
「そんならあなたの論理がそう空っぽうに見えるはずがないじゃありませんか」
「空っぽうじゃないんだもの。ちょうどころ柿の粉のようなもので、理屈が中から白く吹き出すだけなんだ。外部からくっ付けた砂糖とは違うさ」
こんな説明がすでに細君には空っぽうな理屈であった。何でも目に見えるものを、しっかと手につかまなくっては承知できない彼女は、この上夫と議論する事を好まなかった。またしようと思ってもできなかった。
「お前が形式ばるというのはね。人間の内側はどうでも、外部へ出た所だけを捉まえさえすれば、それでその人間が、すぐ片づけられるものと思っているからさ。ちょうどお前のおとっさんが法律家だもんだから、証拠さえなければ文句を付けられる因縁がないと考えているようなもので……」

健康の次第に衰えつつある不快な事実を認めながら、それに注意を払わなかった彼は、猛烈に働いた。あたかも自分で自分のからだに反抗でもするように、あたかもわが衛生を虐待するように、またおのれの病気に敵討ちでもしたいように。彼は血に飢えた。しかも他を屠る事ができないのでやむを得ず自分の血をすすって満足した。

「片づいたのは上部だけじゃないか。だからお前は形式ばった女だというんだ」
細君の顔には不審と反抗の色が見えた。
「じゃどうすれば本当に片づくんです」
「世の中に片づくなんてものはほとんどありゃしない。一ぺん起こった事はいつまでも続くのさ。ただいろいろな形に変わるから他にも自分にもわからなくなるだけの事さ」
健三の口調は吐き出すように苦々しかった。細君は黙って赤ん坊を抱き上げた。
「おおいい子だいい子だ。お父さまのおっしゃる事は何だかちっともわかりゃしないわね」
細君はこう言い言い、幾たびか赤い頬に接吻した。