アンドレーエフ『血笑記』

……物狂おしさと怕ろしさとだ。
初めて之を感じたのは、某街道を引き上げる時であった。もう十時間も歩き続けて、休憩もせず、歩調も緩めず、倒れる者は棄てて行く。敵は密集団となって追撃して来るのだ。今附けた足跡も三四時間の後には敵の足跡に踏み消されてしまおう。暑かった。何度であったか、四十度、五十度、或いはそれ以上であったかも知れんが、唯もうのべつにだらだらと底も知れぬ暑さで、いつ涼しくなるあてもない。太陽は大きく、火の燃ゆるように、怕ろしげで、或いは大地に近寄って、用捨のない火気に引き包み、焼き尽さんとするのかと危ぶまれた。眼を開いていられればこそ。小さく、窄んだ、芥子粒程の瞳孔が閉じた眼瞼の下に陰を求めても、陰はなく、日は薄皮を透して、血紅色の光線を疲れ切った脳中へ送る。けれども、流石に目を閉じていれば楽なので、私は長い間、事に寄ると何時間という間、目を閉じて、前後左右を引き上げて行く物音を聞きながら行った。人馬の重たげな揃わぬ足音、鉄の車輪の小石を引き割る音、誰やらの苦し気な精の尽きた溜め息、はしゃいだ唇を鳴らす乾いた音などが聞こえる。皆黙っている。唖者の軍の行くようだ。皆倒れれば黙って倒れる。それに躓いて倒れる者も、黙って起き上がって、見向きもせずに行く。まるで唖者である上に目も耳も聾いてるようだ。私も幾度か躓いて倒れたが、その時は我にもなく目を開く――と、目に見える物は、人間離れした嘘らしい、此世が狂って苦し気にうわごとをいうような光景だ。炎ゆるような空気が揺れ、蕩けそうな石も黙って揺らぎ、遙か向こうの曲がり角を曲がる人の群も、大砲も、馬も、大地を離れて、音もなく、ジェリーのように震えながら行く所は、生きた物とは見えないで、体は煙の幽霊のようである。大きな怕ろしげな、ツイ鼻の先に見える太陽が、銃身に金具に光を宿して、小さな。無数の太陽を映し出し、その眩い光が横合いからも、足元からも、眼に射込み、白い焔を噴いてピカピカと鋭いこと、さながら白熱した銃剣の切っ先を見るようだ。焼き立て焼き立て物を枯らさむとする暑熱は、身に沁み、骨に透り、髄に徹して、時としては胴の上にぶらつくものは首ではなくて、何とも得体の知れぬ、重こいような、軽いような、円い不思議な物であって、どうやら自分の物ではないように思われ、薄気味悪くなることもある。

三昼夜もサタンのはためき猛る中にいたので、狂気の黒雲に引包まれて、地を離れ、空を離れ、味方を離れて、生きながら狂人の如くにさ迷う。狂人は静かに臥てもいるが、吾々はくれぐれと立ち働いて、勤める所は勤め、物を言い、笑いまでして、――それでいてさながらの狂人だ。

「怖ろしいのか?」といいながらその手に触れて見ると、手は棒のように硬ばっていたが、当人は幽かに莞爾としたばかりで、何とも言わなかった。いや、寧ろ口元で微笑の真似をしたばかりで、眼にはただ初々しさ、怖ろしさが光るのみ、その外には何も無かった。
「怖ろしいのか?」と私はまた優しく言って見た。
志願兵が何か言おうとして口元を動かした時、不思議な、奇怪な、何とも合点のいかぬ事が起った。右の頬へふわりと生温かい風が吹き抜けて、私はガクッとなった――ただそれだけだったが、眼前には今まで蒼褪めた面のあった処に、何だかプツリと丈の蹙った、真っ赤な物が見えて、其処から鮮血が栓を抜いた壜の口からでも出るように、ドクドクと流れている所は、拙い絵看板によくある図だ。で、そのプツリと切れた真っ赤な物から血がドクドクと流れる処に、歯の無い顔でニタリと笑って赤い笑の名残が見える。
これには見覚えがある。之を尋ねて漸く尋ね当てたのだ。其処らの手が捥げ、足が千切れ、微塵になった、奇怪な人体の上に浮いて見える物を何かと思ったら、是だった、赤い笑だった。空にも其が見える。太陽にも見える。今にこの赤い笑が地球全体に拡がるだろう。
皆もう平気で瞭然と狂人のように……

「ま、考えて御覧なさい。数十年数百年の間、慈悲だの、分別だの、論理だのという事を教え込んで、人に意識を与えた以上は――何はさて措いて、意識を与えた以上はですな、それだけの応報がきっと無けりゃならん。そりゃ残忍になれんではない。無感覚になって、血を見ても、涙を見ても、人の苦しむのを見ても、平気でいるように、為ろうとすればなれる。例えば、牛や豚の屠殺者、ある種の医者、或いは軍人なぞがそれでさ。が、しかし、一旦真理を認識した者が真理を棄ててしまう事が出来るでしょうか?私は出来んと思う。子供の時から動物を苦しめるな、情を知れ、と教えられているのです。読んだ書物という書物には皆そう書いてあるのです。だから今度の戦争に悩まされる人を見ると、私は気の毒で気の毒で耐まらない。私は戦争を呪詛する。が、段々日数の経つに隋れて、人の死ぬのや、苦しんだり血を流したりするのが珍しくなくなってくると、不断は感覚が鈍ったような、道義心が麻痺したような塩梅で、余程何か強い刺激でも受けなきゃ、胸に応えない。が、それでも、戦争そのものとはどうしても折り合う事が出来ん。元来が没常識の事を理解する――そんな事は私の頭では出来ない。百万の人が一所に集まって、一々法に依って進退して命を取り合う、而して皆同じように苦しい思いをして、同じように不幸な身の上になる、――それに何の意味があります?まるで狂人の所為じゃありませんか?」

……で、感興、神来の感興が湧いてきた。頭の中で燐っと日が照り出して、創造の力を載せた熱い光を世界の上に落とす時、花が散り、歌が散る。花に歌だ。私は夜っぴてペンを措かなかったが、疲れを覚えなかった。雄大な神来の感興の翮を鼓して、縦横無碍に翔け廻って、文を作った。天地間の一大文章だ、千歳不磨の文章だ。花が散り、歌が散る。花に歌だ……。

「たった今戦争を止めろ!止めんと……」
止めんと、如何する?世に人間の惑を解くべき言葉があるか?こういえば、ああと、同じように壮語して、癖言も言えば言える。或は人間の前に跪いて泣いたら?数十万の人の泣声が世を撼っても、何の効もないでないか?或いは人間の前で自殺して見せたら?自殺。毎日数千という人が命を落しても、何の効もないでないか?
こうして自分の力では奈何ともすることが出来ぬと思うと、私は気が坐ろになる、――呪う所の戦争にかぶれて、その狂味を帯びてくる。兄の話のドクトルのように、妻子珍宝諸共に人間の栖家を焚きたくなる、その飲む所の水に毒を投じたくなる。あらゆる死人を棺から引き出して亡骸を汚れた人の寝台の上に抛げ付けたくなる。汝等人間、妻を抱き情婦を抱いて眠る如くに、死骸を抱いて睡り去れ!
ああ悪魔になりたい!地獄の惨たる有様を此世に写して、人間に見せ付けて遣りたい。人間の夢を司って、人の親が笑顔をして眠らんとしては、その子に十字を切掛ける時、真っ黒な姿をしてその面前にヌックと立ってやりたい……
私はどうしても気が狂う。ただ、狂うなら、早く狂え、――一刻も早く狂え……

私は電車を飛び降りてしまった。皆戦争には泣かされている、あの人達もやはりそうだろうに、――これはまたどうしたことだ?どうやら絳い霧が大地を包んで人の目を遮り、真に世界の破滅が近づいたように段々思われてくる。兄が見たという赤い笑がこれだ。かなたの血みどろの赤黒くなった野から、狂乱の風が吹いてきて、大気の中にその冷たい気息の伝わるを覚える。私は屈強な男だ、病で身体を壊した為に脳髄が溶けてきたのではないが、病気が伝染して私の心の半はもう私の自由にならぬ。これはペストより悪い、ペストより怖ろしい。ペストなら、まだ何処へか躱れる法もある、何かしら予防法を施す事も出来るが、遠近もなく、障隔もなく、何処へでも徹る思想には躱れる道がないではないか?
昼はまだ凌げるが、夜になると、私も人並に夢の奴になってしまう、――その夢がまた怖ろしい狂気染みた夢で……

「何も心配する事はないよ」、と兄が寝台の端に腰を卸した。亡者でも重たくて、寝台がギシギシという。「何も居心配する事はない。みな夢だ。咽喉を締められるような気がするので、お前は実は誰も居ない真暗な部屋でグッスリ寝込んでいるのだ。ね、私は書斎で書いてのだ。何を書いてるのか一向知らんもんだから、お前方は私を狂人扱いにして失礼な真似をしているけれど、もう斯うなりゃ打ち明けよう。私は実は赤い笑の事を書いているのだ。お前に見えるか?」
何やら大きな真紅な血だらけの物が私の上に覆さってて、歯のない口元でゲタリと笑っている。
「これが赤い笑だ。地球が狂気になると、こういう笑い方をするものだ。お前知ってるだろう、地球の気の違った事は?もう花も歌もなくなって、地球は円い、滑こい、真紅な、皮を剥いた頭のような物になってしまった。見えるか?」
「見えます。今笑ってます」
「地球の脳髄がえらい事になってしまったから、御覧。真紅なところは血の粥とでも謂いそうだ。滅茶滅茶になってしまった」
「何か喚いてる」
「痛いのだ。もう花も歌もないからな。さあ、己がお前の上へ乗っかるぞ!」
「乗っかっちゃ、重たい、気味も悪い」
「死んだ者なら、生きてる者の上に乗っかるべき筈だ。温かいだろう?」
「温かです」
「好い心持か?」
「死にそうだ」
「目を覚ましてワッといえ。目を覚ましてワッと。己はもう行く……」

人は三昼夜眠らんと、病を得て物も覚えられぬようになるというのに、況して是はもう一週間も眠らずにいるのだから、皆狂気になっている。であるから、苦しいとも思わない、退こうともしない、一人残らず討死してしまうまでは、奮闘せんとするのだ。風聞によると、某隊では弾薬が尽きて、石を投げ合い、拳で殴ち合い、犬のように咬み合ったと云う。もしこの戦闘の参加者で生還する者があったら、狼のように牙が生えているかも知れぬが、恐らく生還者はあるまい、皆狂っているから、一人残らず討死してしまおう。皆狂っている。頭の中が顛倒して何も分からなくなっているから、もし急にグルッと方向を変えさせられたら、敵と思って味方に発砲しかねまいと思われる。

「こんなに沢山狂人のあった事を聞いた事がない」といって、皆蒼くなる。今も昔も変わらぬと思って居たいのだ。遍く人の良智を無理に抑えて居る力は銘々の果敢ない頭の上へは及ばぬと思っていたいのだ。

……鴉が啼いている……
ふっと、瞬く間、調子外れのないとも言いようもない嬉しい心持になってみると、今までの事は皆うそで、戦争も何もありはせん。戦死者もなければ、死骸もない。思想の根底が揺いで便りなくなるなぞと、そんな怖ろしい事もあるのではない。私は仰向けに臥て、子供のように怖ろしい夢を見ているのだ。死や恐怖に荒らされて寂然となった不気味な部屋部屋も、人の書いた物とも思えぬ手紙を手に持った私も、みな夢だ。兄は生きていて、家内の者はみな茶を飲んでいる。茶器の物に触れて鳴る音も聞こえる。
……鴉が啼いている……
いや、やっぱり事実だ。不幸な世の中――それがじじつではあるまいか?鴉が啼いている。理性を失った狂人や、無言に苦しむ文士などが、安直の奇を求めて思い付いた空言ではない。鴉が啼いている。兄は何処にいるか。気品の高い、温順な、誰にも迷惑を掛けまいと心掛けていた人だ。兄は何処にいる・さあ、忌々しい解死人めら、返事をしろ!呪っても足らぬ悪党めら、牛馬の屍肉に集った鴉めら、情けない愚鈍な畜生めら、――さあ、手前達は畜生だ、――世界の人の面前で手前達に聞いているのだぞ!何咎あって兄を殺した?手前達に面があるなら、頬打ち喰わしてやる所だが、手前達に面はない。手前達のはそれは肉食動物の鼻面というものだ。人間の風をしていても、手套の下から爪が見えるでないか?帽子の下から畜生のひしゃげた脳天が見えるでないか?幾ら利口そうな口を利いても、手前達の言う事には狂気じみた所があるわ。錆錠のぢゃらぢゃらいう音がするわ。己は己の悲しみ、憂い、侮辱せられた思想の力の有り丈を尽して、手前達を呪うぞ、この情けない愚鈍な畜生めら!