大江健三郎『青年の汚名』

老人は道庁の役人の蒼ざめて消耗した顔、本土で官庁につとめている穀つぶしの顔とくらべて、島の漁民たちの顔がいかに威厳と人間らしさをもっているかという考えが老人に勇気をあたえる。島の漁民の顔こそが真の人間の風貌であり、島の漁民の顔こそ栄光の時代の自恃や誇り、いくたびもの難船や島を頻繁におそった土砂崩れ、季節労働者の叛乱、それら危険な戦いを生き残ってきた者の決定的な逞しさが輝いて荒若アイヌを駆逐した強い日本人の風貌が達成されている。それは誇りをもって日本人の顔と主張することのできる顔だ。それらの顔はたがいに似かよい同じ血を感じさせる。それらの顔は英雄的な家族、血と死をおそれない者の血統の大同団結を思わせる。しかもそれらの顔の持主たちは、日本のほとんど全土から流れてきた他国者であり、おたがいの血は日本人として可能なかぎり互いに遠いのだ。沖縄や朝鮮からやってきた者のいる。しかしかれらは同じ声、同じ顔、同じ精神をもっているのである。荒若島の生活、それがかれらの多種多様の血を一つ血統にまとめる。老人はその血統の危機に立ちあがってその血統の護持のために闘争を開始したのだ。

島の青年は動きはじめさえすればある程度の陽気さを回復する。それはかれらがYUKIのなかで凍死したり、網上げの最中にぐったりして役たたずになり、ついには海におちこむ事故をひきおこしたりすることをふせぐために、あらゆる時代の島の若者がその体にそなえてきた一つの本能的な習性なのだ。

すべての者たちは沈黙して鶴屋の長老の演出に息をのまれていた。それにはまた東原サキ独自の一種の腐蝕菌めいた影響力に負う部分があったことも否定できない。東原サキは鶴屋長老の背後に昂然と頭をあげて立ち、激烈な放射能を周囲に発散していた。人々はいま実に華麗な衣服に身をかためてそこに昂然と頭をあげて立っている東原サキから彼女が小娼婦として掘立小屋にすまう孤児であった時代にまきちらしていた悪魔的な倣岸と貪婪な快楽指向にいろどられたある種の根深い凶悪さをふたたび感じとり、この火の女神ミンダラウチのごとき女を島に住みつづけさせていたこと自体に対して深刻な不安をよびさまされていたのであった。

荒若は黙っていた。しかしかれは荒若島の漁師たち、その家族たちへの呪詛に胸をたぎらせており、かれもまた医師のようにこの木造の怪物どもを焼きはらいたい思いにとらえられていたのである。《おれは医師のように酔ってではなく、しらふで焼きつくしてやりたい。しかもおれはあの汚ならしいやつらを家にとじこめたままで焼きつくしてやりたいのだ。おれに汚名をかぶせ雪のなかを狩りたて犬までつかっておれを追いつめ、そのあげくおれに銛頭を投げつけておれの肩口を破ったやつらをおれはこの汚ならしい家ごと焼きつくしてやりたい。おれは裸足で雪のなかへ逃げだすかわりに、あの夜、大集会場のまんなかへ爆弾をなげこんであいつらをみな殺しにしてやるべきだったのだ。あいつらを鶴屋の卑劣きわまる策謀家を、東原サキの淫売を網元衆を、漁師どもを、そして青年会のやつらを、あいつらみんなをみな殺しにしてやるべきだったのだ》

《荒若は、もう荒若神屋にいる資格がない、荒若は精進潔斎せず、わたしと寝たからです。荒若はもう童貞ではないからです》
荒若は、東原サキがかれを心底から怯えあがらせるあの告白を叫びたてた瞬間に大集会場のすべての人々が空間にただよう幻影としてかれ自身の陰茎と東原サキの女陰とが接合しているエロティックで悽惨なイメージを見ていたのだという気がする。そしてあの瞬間以後、荒若には東原サキの叫びのとおり童貞ではなくなったのではないかという気がするのである。すでに童貞でないという想念は荒若に不思議に甘美な解放感をあたえる。荒若は自分が隆次たちと協力して青年会の仕事にたずさわったのは、この甘美な解放感への飢餓にかりたてられたためではなかったかと思う。いったん東原サキをめぐってのもの思いにとらえられると荒若はそこからみずからをひき戻したちなおるために、鶴屋の長老への怒りにたよるほかない。かれは東原サキについて堂々めぐりの泥沼に足を踏みいれるたびに呪文のように鶴屋老人への怒りの言葉をつぶやいてわれにかえる。
《とにかくおれの敵は鶴屋の長老なのだ。おれは鶴屋の長老に報復しないではいないぞ!》

《おれは海で水死するより、雪のなかで凍死したい》と荒若は、むしろ甘美な情念にさそわれて考えた、孤独だが居心地の良い考えだった。