トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』

最も多く愛する者は敗者である、そして苦しまねばならぬ――トニオの十四歳の魂は、すでに人生からこの単純で過酷な教訓を受けとっていた。

彼はこの地上で最も気高いと思った力、それに仕えるのが自分の天職だと感じていた力、彼に高貴と栄誉とを約束した力、すなわち無意識にしてもの言わぬ生の上に、微笑をたたえつつ君臨する精神と言語の力に全身をゆだねた。彼はその若々しい情熱をあげてこの力にささげた。そしてこの力はその贈りうるもの一切を贈って彼に報いたが、また、その代償に奪いとるのを常とする一切を、容赦なく彼から奪いとった。

官能にたいする嫌悪と憎しみが、純潔と節度ある平和への激しい欲望が襲ってきた。とはいえその一方では、彼は芸術の空気を、生暖かくて甘美な、香料入りの常春の空気を吸っていた。そこでは人知れぬ創造の歓楽のうちに一切が煮えたぎり、うごめき芽生えていたのである。つまるところ彼は、あてどもなく激しい極端から極端へ、冷厳な知性と身を灼く官能の劫火とのあいだを行きつ戻りつしながら、数々の良心の呵責のもとに、われとわが身を蝕むような生活を、未知ならぬ放埓な異常な生活を続けて行くよりほかはなかった。そして彼トニオ・クレーゲルは、心の底でこういう生活におぞけをふるっていたのである。なんたる彷徨、と彼はときおり考えた。自分ともあろうものが、一体なぜこんな途方もない冒険の中にはまり込んで行くのだろうか。己はもともと決して緑色の車に乗ったジプシーなんかではないのだ。……

しかし健康がそこなわれて行くのに反比例して、彼の芸術精神はとぎ澄まされて行った。気むずかしく、絶妙に、貴重に、繊細に、低俗なものにたいしては神経質に、技法と趣味の問題に関しては極度に敏感になった。彼が世に出たとき、専門の人々のあいだからはさかんな喝采歓喜の声とが起った。彼が差し出した作品は諧謔と苦悩の知識とにあふれ、丹精の末になった精妙をきわめたものだったからである。

「……いや、文学は人を疲らせる、リザヴェータさん。人間の社会じゃ全くの話が、あんまり懐疑的で意見をさし控えていると、じつは高慢でその気がないというのが本当なのを、馬鹿だと思われることがありますね。……『認識』についちゃこれだけ。さておつぎが『言葉』ですが、こいつは感情の解放というより、むしろ感情の冷却というか、感情を氷の上にのっける働きをするもんじゃありませんか。文学の言葉は、あっという間にあっけなく感情を始末してしまいますが、そこには何か冷酷で腹立たしいほど不遜なものがあるわけですよ、正直のところ。あなたの心臓があふれんばかりになったり、何か甘いあるいは崇高な体験のために感動しすぎたりするような時はですね、話は簡単だ、文士のところへお出かけなさい。そうすればあれという間に万事片がつく。文士はあなたの要件を解剖し形式化し、そいつに名をつけ、口に出し、事件そのものに話をさせ、揚句のはてに一切が永遠に片付いてしまい、どうでもいいことになってしまい、しかもあなたにお礼なんか言わせはしません。それであなたのほうはどうかというと、熱がとれて気が軽くなり曇りが晴れて家に帰るんです。一体今の今までなんであんなことに、ああまで現を抜かしていたんだろうと不思議がるのがおちです。さてこういう冷酷で虚栄の強い道化者をあなたは本気で弁護なさるというんでしょうか。文士の信仰告白はこうです、いったん口に出されてしまったことは、片づけられてしまったんだとね。全世界が口に出されてしまえば、全世界はそれで片付き救済され完結してしまうんです。……結構な話ですね。さりとて私はニヒリストじゃありませんが。……」