村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』

『はじめに・回転木馬のデッド・ヒート

他人の話を聞けば聞くほど、そしてその話をとおして人々の生をかいま見れば見るほど、我々はある種の無力感に捉われていくことになる。おりとはその無力感のことである。我々はどこにも行けないというのがこの無力感の本質だ。我々は我々自身をはめこむことのできる我々の人生という運行システムを所有しているが、そのシステムは同時にまた我々自身をも規定している。それはメリー・ゴーラウンドによく似ている。それは定まった場所を定まった速度で巡回しているだけのことなのだ。どこにも行かないし、降りることも乗りかえることもできない。誰をも抜かないし、誰にも抜かれない。しかしそれでも我々はそんな回転木馬の上で仮想の敵に向けて熾烈なデッド・ヒートをくりひろげているように見える。
事実というものがある場合に奇妙にそして不自然に映るのは、あるいはそのせいかもしれない。我々が意志と称するある種の内在的な力の圧倒的に多くの部分は、その発生と同時に失われてしまっているのに、我々はそれを認めることができず、その空白が我々の人生の様々な位相に奇妙で不自然な歪みをもたらすのだ。

レーダーホーゼン

一人で旅をすることはなんて素晴らしいのだろう、と丸石敷きの道を辿りながら彼女は思った。考えてみればこれは彼女にとっては五十五年間の人生の中ではじめての一人旅なのだ。一人でドイツを旅しているあいだ、彼女は淋しさや怖さや退屈さを一度として感じることはなかった。全ての風景が新鮮であり、全ての人々は親切だった。そしてそのような体験のひとつひとつが長いあいだ使われることなく彼女の肉体で眠っていた様々な種類の感情を呼び起こした。彼女がずっとこれまで大事なものとして抱えて生きてきた多くのものごと――夫た娘や家庭――は今はもう地球の裏側にあった。彼女はそれについて何ひとつ思い煩う必要はないのだ。

『プールサイド』

35歳になった春、彼は自分が人生の折りかえし点を曲がってしまったことを確認した。
いや、これは正確な表現ではない。正確に言うなら、35歳の春にして彼は人生の折りかえし点を曲がろうと決心した、ということになるだろう。

彼はその情事を通じてあるひとつの事実を学ぶことになった。驚いたことに、彼は既に性的に熟していたのである。彼は33歳にして、24歳の女が求めているものを過不足なくきちんと与えることができるようになっていたのである。これは彼にとっての新しい発見だった。彼にはそれを与えることができるのだ。どれだけ贅肉を落としたところで、彼はもう二度と若者には戻れないのだ。

『今は亡き王女のための』

大事に育てあげられ、その結果とりかえしのつかなくなるまでスポイルされた美しい少女の常として、彼女は他人の気持ちを傷つけることが天才的に上手かった。
その当時僕は若かったので(まだ二十一か二十二だった)、僕は彼女のそんな性向をずいぶん不愉快に感じたものだった。今にして思えば彼女はそのように習慣的に他人を傷つけることによって、自分自身をもまた同様に傷つけていたのだろうという気がする。そしてそうする以外に自分を制御する方法が見つからなかったのだろう。だから誰かが、彼女よりずっと強い立場にいる誰かが、彼女の体のどこかを要領よく切り開いて、そのエゴを放出してやれば、彼女もずっとラクになったはずなのだ。彼女もやはり救いを求めていたはずなのだ。

年をとることの利点のひとつは好奇心を抱く対象の範囲が限定されることで、僕も年をとるにつれて、奇妙な種類の人々に関わりあう機会は昔に比べてずいぶん少なくなってしまった。ときどきふとしたきっかけで、昔出会ったそういう人々のことを思い出すことがあるが、それはちょうど記憶の端にひっかかっている断片的な風景と同じで、僕にはもう何の感興も呼び起こさない。べつに懐かしくもないし、べつに不快でもない。

『嘔吐1979』

「考えてみりゃ、吐くのなんてそんなにたいしたことじゃないんです。痔とか虫歯に比べて苦痛も少ないし、下痢に比べれば上品です。もちろんこれは比較の問題ですがね。栄養の問題が解決し、癌の可能性がなくなれば、嘔吐というのは本質的には無害なんです。だってアメリカじゃやせるための人工的嘔吐剤を売っているくらいですからね」

『ハンティング・ナイフ』

時間が何時であろうが、そんなことは彼女にはあまり関係のないことのように思えた。ただ何かを訊いてみたかっただけのことなのだ。時間というのは純粋に独立した存在なので、そのように独立してとりあつかうことが可能なのだ。