ゲーテ『若きウェルテルの悩み』

不思議な朗らかさがぼくの心をすっかりとりこにしてしまった。ぼくが心底から味わいたのしんでいる甘美な春の朝な朝なのような。ぼくはひとりだ、そうしてぼくみたいな人間のために作られたこの土地での生活をたのしんでいるんだ。幸福この上もない。やすらかに生きている感情の中におぼれきっている。だから絵筆のほうはそっちのけになってしまった。一本の線も今は描けそうにないんだが、しかしぼくは今ほどえらい絵描きだったことはない。まわりの美しい谷間から霧が立ちのぼり、昼間も暗いぼくの森の上に高々と太陽がかかって、ただ幾筋かの光線が神聖な森の暗がりにそっと差しこむ。そんなとき、ぼくは流れ下る小川のほとりの深い草の中にからだを横たえ、大地に身をすり寄せて数限りないいろにろの草に目をとめる。草の茎の間の小世界のうごめき、小虫、羽虫のきわめがたい無数の姿を自分の胸近く感ずる。自分の姿に似せてぼくらをつくっら全能者の現存、ぼくらを永遠の歓喜のうちにやさしくささえ保っていいてくれる万物の父のいぶきを感ずる。そのうち両の眼がかすんできて、身のまわりのいっさいや青空がまったくぼくの魂の中に、まるで恋人の面影のようにやすらう。――そんなときにぼくは万感胸に満ちて、こう考えるのだ。ああ、こんなにもゆたかに、こんなにもあたたかく己の中に生きているものを表現することができたらなあ。それを画紙にとらえることができたらなあ。そうして、ちょうど己の魂が無限なる神の鏡であるように、それが己の鏡になってくれたなら。わかってくれるかい。――けれど、だめなんだ、ぼくは、そういうものがあんまりすばらしいので、手も足も出なくなってしまうんだ。

ぼくの蔵書を届けてやろうかとのお問い合わせ。――冗談じゃない、勘弁してくれたまえよ。指導されたり励まされたり焚きつけられたりするのはもうまっぴらなんだ。沸き立つこの心一つを扱いかねているくらいなんだから。必要なのはむしろ子守唄だが、これはわがホメロスの中にふんだんに見つけ出した。実際よくぼくは沸き返る血潮を子守唄で寝かしつける。君だってぼくの心臓ほどむら気で落ち着きのないのを見たことはあるまい。いやこんなことを君にいう必要なんかありはしない。君はぼくという男が苦悶から放縦な空想へ、甘い憂鬱から破壊的な激情へと移って行くのをいやというほど見せつけられてきたんだから。またぼくにしたところが自分の心を病気の子供のように扱っているのさ。したい放題にさせているんだ。ただしこういうことは他言無用だよ。これを悪くとるような人がいるからね。

無限に豊富なのは自然だけだ。自然だけが大芸術家を作り上げるんだ。市民社会を賞賛sできるように、規則擁護論はむろん可能だし、規則に従って人間は決して没趣味なものやまずいものをこしらえはしない。ちょうど法律や作法によって身を律する人間が、絶対に不愉快な仲間だったりひどい悪者だったりすることがないようにね。しかしその代わりに規則というものはどんなものだって、自然の真実な感情と真実な表現とを破壊するものなんだ。これは明白だ。君はあるいは反駁するかもしれない、規則はただ制限し余計な蔓を切り取るだけだ、そういうのは極端だ、と。――じゃ一つ、譬え話を持ち出そうか。つまり恋愛みたいなものなんだ、それは。若い男がある少女にぞっこんほれこんで、年がら年中その少女のそばにつきっきりで、全才能、全財産をあげてその少女に参っていることを絶えず示そうとする。そこへ一人の俗物、役人かなんかをやっている男が現れて、こういったと思いたまえ。「ねえ君、恋愛するのはもっともだが、ただしもっともな恋愛をしたまえ。君の時間を分けて、その一部は仕事にさく、そして休養時間を君の娘さんにささげたまえ。財産を計算して、必要なかかりを除いて、残った部分からその娘さんに贈り物をするというのなら結構だ。ただし贈り物もあまりひんぱんにしてはならない、誕生日とか命名日とかにかぎる」――などとやらかしたら、どうだろう。なるほどそんな忠告に従えば立派な青年ができあがるだろうから、こういう青年なら役人として使われてもご損はありませんといって、ぼくだってご領主様どなたにもおすすめするさ。だけど恋愛はそれでおしまいだ。その青年が芸術家なら、芸術もまたおしまいさ。ああいったいどうして、天才の流れが、あふれ出て高潮して押し寄せ、君らの心をゆすぶって驚愕させるのはまれなんだろうか。――その岸辺の左右には落ち着きはらった紳士諸君が住んでいて、自分たちの四阿やチューリップの花壇や菜園が台なしにされやしないかと心配して、将来の危険にそなえて時折ダムを築く、排水工事を施すという次第だ。

ねえ、君、ぼくという人間は、心がどうにもおさえられなくなると、のんきにたのしく自分の狭い生活圏の中で不平もいわずその日その日をどうにかしのいでいって、落ちる木の葉を見ては冬のきたこと以外にはなんいも思わないような、そういった人間をながめるのが何よりの薬なんだ。

そうだ、思いちがいじゃない。あの黒い眼の中に、ぼくとぼくの運命への本当の関心を読みとることができる。いやぼくは――この点ぼくは自分の心を信頼していいと思うが、彼女が、――こんなふうにいうことが許されるだろうか、こんなふううにいえるだろうか――ぼくを愛していると感じている。
愛してくれる。――そうしてぼくがぼく自身にとってどれほど大切なものになり、ぼくがどんなに――君にならこういってよかろう、君はこういうことを理解できる人だからね――彼女がぼくを愛してくれて以来というもの、ぼくはどれほどぼく自身を尊ぶようになっただろう。
うぬぼれだろうか、それとも本当にそうなんだろうか。――ぼくはロッテの心の中にある人で、ぼくが少しでも恐れなければならないような人を知らないのだ。しかし――ロッテが熱い思いをこめて実にやさしくいいなずけのことを話すとき――ぼくは自分が、名誉や位、帯剣までいっさいはぎとられてしまった人間のような気がしてくる。

しかしたった一つだけいわせてもらえばだね、世の中ではあれかこれかで片のつくようなものはそうめったにあるもんじゃないってことだ。ぼくらの気持ちや行動の仕方は実に複雑なのだ。鷲鼻と団子鼻との間に無数の変化があるようにね。

「いや、たといどんないわれ因縁があろうと、絶対に許しがたい行為があるということは、君も賛成してくれるだろうね」
ぼくは肩をすくめて、それはそうさと答えた。――「けれどね。君、その場合も若干例外がある。盗みが罪だということは真実だ。しかしさし迫る飢えから自分自身や家族の者を救おうとして盗みをはたらいた者は、同情に値するだろうか、刑罰に値するだろうか。不貞な妻と下劣な誘惑者を不当な怒りにかられて殺す夫にたいして、またよろこびにわれを忘れてとめどない恋の歓楽に身を任せた少女に向かって誰が第一の石を振り上げるだろうか。ぼくらの法律さえ、この冷酷無情な衒学者さえ感動のあまり、罰を差し控えはしないだろうか」
「それとこれとは問題が別だよ。自分の情熱のとりこになって思慮分別を失った人間というものは、酔っぱらいや気違いみたいなものなのだからね」
「ああ君たちは理性的だねえ」とぼくは微笑して答えた。「情熱、陶酔、狂気。しかし君たちは悠然と無感動に澄ましかえっていられるんだね、君たち道徳家は。酔っぱらいを叱りたまえ、気違いをきらいたまえ、坊さんみたいに素知らぬ顔で通りすぎたまえ、そすいてパリサイ人みたいに、そういう連中の一人にならなかったことを神に謝したまえな。ぼくは一度ならず酔いもした、ぼくの情熱は決して狂気に遠いものじゃなかった、しかしその両方を悔いてはいないんだ。何か大きなことや、何か不可能に見えるようなことをやってのけた非凡人は、みんな昔から酔っぱらいだ、気違いだといいふらされざるをえなかったことが、ぼくはぼくなりにわかってきたように思う。
しかしこの世間でだって、誰かが自由で気高い意想外な仕事をやりはじめると酔っぱらいだのばか者だのって取り沙汰をするが、あれも実に聞くに堪えない。無感動な君たち、利口な君たちも、少しは恥ずかしいと思いたまえよ」
「そら、それが君の妄想というものさ」とアルベルトがいうのだ。「君はなんでもおおげさにしてしまう。すくなくとも今の場合、問題の自殺を立派な行為とくらべるなんていうのは間違ってはいないか。なにしろ自殺は弱さにすぎんのだからね。苦しみの多い人生に毅然として処していくより、死んでしまうほうがむろん楽なんだから」

「おい、君、人間に変わりがあるものか。人間がもってる少しばかりの知恵分別なんか、情熱が荒れ狂って人間性の限界がつい鼻のさきに見えてくると、屁の役にも立ちはしないんだ。むしろ――いやもうやめだ」ぼくはこういって帽子をつかんだ。胸がいっぱいになってしまって。――とにかくぼくらは互いに納得の行かぬままで別れた。まずまずこの世では誰も他人を理解しないものらしいね。

第一印象というものは受け入れやすいし、人間はどんなに現実離れのしたことでも信じる気になるものだ。ところがそいつはいったん頭に入ってしまったらこびりついてなかなか離れるものじゃないから、それをあとからかき落とそうとしたり削りとろうとしたりしないほうが賢明なのだ。

ぼくたちはよくこう思う、ぼくらにはいろいろなものが欠けている。そうしてまさにぼくらに欠けているものは他人が持っているように見える。そればかりかぼくらは他人にぼくらの持っているものまで与えて、もう一つおまけに一種の理想的な気楽さまで与える。こうして幸福な人というものが完成するわけだが、実はそれはぼくら自身の創作なんだ。
これに反してぼくらがどんなに弱くても、どんなに骨が折れても、まっしぐらに進んで行くときは、ぼくらの進み方がのろのろとジグザグであったって、帆や櫂を使って進む他人よりも先に行けることがある、と実によく思う。――そうして――ほかの人たちと並んで進むか、あるいはさらに一歩を先んずるときにこそ本当の自己感情が生れるのだ。

ぼくらの立派な先祖たちは、あんなに狭い知識しか持たなくとも、あんなに幸福だったのだ。その感情、その文学はあんなに子供らしかったのだ。オデュッセウスが、はからべからざる海原、限りなき大地というとき、それは実に真実で人間的で切々と引き締まっていて神秘的だ。今日ぼくが小学校の生徒と一緒になって、地球は丸いなんて人まねしていたっところで、それがどうだというのだろう。人間は、その上で味わい楽しむためにはわずかの土くれがあれば足り、その下に眠るためにはそれよりももっとわずかで事が足りるのだ。

それに公爵はぼくの心よりも、ぼくの理知や才能のほうを高く評価しているんだが、このぼくの心こそはぼくの唯一の誇りなのであって、これこそいっさいの根源、すべての力、すべての幸福、それからすべての悲惨の根源なんだ。ぼくの知っていることなんか、誰にだって知ることのできるものなんだ。――ぼくの心、こいつはぼくだけが持っているものなんだ。