志賀直哉『暗夜行路』

人類が滅亡するということを吾々は知っている。が、それが吾々の生活を少しも絶望的にしない。それに想いを潜める時に淋しい堪えられない感じを起すことはある。しかしそれはちょうど無限を考えて変な淋しい気持ちに導かれる、それと変りない感じである。実際吾々は人類の滅亡を認めながら感情的にこれを勘定に入れていない。この事実はむしろ不思議だ。そして吾々は出来るだけの発達をしようと焦っている。これは結局、吾々は地球の運命に殉死するものではないという希望をどこかに持っているからではないか。そしてそういう大きな意志が誰にも無意識に働いているからではないか。

感情が一番先立ちになっていてくれなければ、彼ではそれは不自然だった。誰とも夢中になれそうもないと思うと、時々彼は自己嫌悪におちいった。しかしそんな気持でいながら、身体だけは、彼はますます放蕩の深みへと堕として行ったのである。

二人は荒神橋の袂から往来へ出た。謙作は自分が自分ながら可笑しいほど快活な気分になっていることに気がついた。その人の姿の片鱗を見たというだけでこうも変る自分が滑稽にもまた、幸福にも感ぜられた。こうしてこのことが順調に運び、うまく行けば、今までにない、本統の新しい生活が自分に始まるのだと思った。実際今まではすべてが暗闇に隠されていた。そのために、かえって恐ろしい黴菌が繁殖した。すべては明るみへ持ち出される。そして日光にさらされる。黴菌は絶やされる。そして、初めて、自分には、自分らしい本統の新しい生活が始まるのだ。

「悪い癖だと自分でも思っている。何でも最初から好悪の感情で来るから困るんだ。好悪がすぐさまこっちでは善悪の判断になる。それが事実大概当るのだ」
「気分の上では全く暴君だ。第一非常にイゴイスティックだ。――つめたい打算がないからいいようなものの、傍の者はやっぱり迷惑するぜ。君自身がそうだと言うより、君のうちにそういう暴君が同居している感じだな。だから、一番の被害者は君自身と言えるかも知れない」
「誰れにだってそう言うものはある。僕と限ったことはないよ」
謙作はこれまで、暴君的な自分のそういう気分によく引き廻されたが、それを敵とは考えない方だった。しかし過去の数々のことを考えると、多くが結局一人角力になるところを想うと、つまりは自分のうちにあるそういうものを対手に戦って来たと考えないわけには行かなくなった。直子のことも解決はすべて自分にまかせてくれ。お前は退いていてくれ、今後顔出しするのは邪魔になる。――自分がすぐこれを言ったのは知らず知らず解決をやはり自身のうちだけに求めていたことに初めて気がついた。実際変なことだと思った。――「自身のうちに住むものとの争闘で生涯を終る。それくらいなら生れて来ない方がましだった」
そんな意味を言うと、末松は「しかしそれでいいのじゃないかな。それを続けて、結局憂なしという境涯まで漕ぎつけさえすれば」と言った。