マーク・トウェイン『不思議な少年』

「あのう、神父さま、良心というのはどういうものなんです?」
神父は驚いたものとみえ、大きな眼鏡ごしに、わたしたちを見おろした。そして言った。
「なに、それはな、善と悪とを区別するわたしたちの能力だよ」
わたしたちは、いくらかはわかったような気がした。しかし、はっきりとまではいかなかったので、正直にいって、ちょっとがっかりしたばかりか、かなりの当惑をさえ感じた。神父は、さらにわたしが質問をつづけるのを待っているらしい様子だった。だが、わたしとしては、別にもう言うこともなかったので、とりあえず、ただ、「じゃ、それは大切なものなんですか?」とだけ訊いてみた。
「大切かだって?これは驚いたな!いいか、良心こそは、人間とけだものとを区別するもの、つまり、人間のようなものが、神の不滅にあずかれるというのは、一にこの良心のおかげなのだ」

「いかにも君たち人間という卑しい連中のやりそうなことなんだな。嘘ばかりついて、ありもしない道徳なんてものをふりかざしたがる。そして、実際はほんとうに道徳をわきまえている、人間いじょうの動物に対して、道徳知らずだなどとけなしつけてるんだな。第一、獣はけっして残忍なことなどしやしない。残忍なことをやるのは、良心なんてものを持っている人間だけなんだ。そりゃ獣も他を傷つけることはあるよ。だが、それは無心でやってるんであって、したがって、けっしてそれは悪じゃない。第一、獣にとっちゃ、はじめから悪なんてものはないんだからね。獣には、他を傷つけてよろこぶなんてことは、けっしてない。それをやるのは人間だけなんだ。良心なんて、糞っくらえの代物にあふられやがってね!良心といや、一応は善悪を区別する働きだなんてことになっていてさ、しかも、人間にはそれを選ぶ自由があるなんてことまで言やがるんだが、いったい、それがなんになってると思う?たしかにいつでも選んじゃいるよね。だが、十中の九までは悪のほうを選んでるだけhじゃないか。悪なんてあるのが、そもそもおかしいんだよ。良心なんてものさえなければ、悪など存在するはずがない。ところがだよ、君、この人間てやつはあまりにも頭の悪いわからずやだもんでね、この良心なんてものがあるおかげで、下劣も下劣、あらゆる生物の最下等にまで堕落しきってるってわけさ。そして、その良心ってやつこそ、もっとも恥ずべきお荷物ということにさえ、とんと気がつかないんだな」

そして、そのあとサタンは、がらりと調子を変えると、口をきわめて人間というものを嘲笑しだした。戦場の功名がなんだ!不朽の名声、偉大なる君主、古い家名の貴族たち、すばらしい歴史、そういったものへのわたしたちの誇りも、すべてひとしなみに嘲い去られてしまった。そして、抱腹絶倒とでもいうか、しまいには、聞いているほうがむしろ不愉快になるほどであった。だが、最後にまた少しばかりしんみりした顔になったかと思うと、「それにしても、結局のところは、ばかばかしいというだけじゃあるまいね。君たち人間の一生がどんなにはかないものか、またその栄華とやらが、きわめて子供じみたものであり、いわばまるで影みたいなものだってことを考えると、むしろなにか気の毒のようなところさえあるね」と言った。

まだわたしたちが九つのときだったが、彼が二マイルばかりもある果物屋まで使いに行ったことがある。果物屋は褒美に、大きな林檎を一つ彼にくれた。彼はおどろくやら、うれしいやら、夢中でかえる途中で、偶然わたしに会ったのだ。彼は、だまされるとも知らず、それをわたしに見せた。わたしはさっとひったくると、逃げながらかじった。彼は追いすはってきて、返してくれとたのむ。だが、わたしはつかまったときに、やっと残った芯だけを返してやった。そして、わたしは大声で笑ったのだ。彼は顔をそむけたまま、妹にやるつもりだったのにと、泣きながら言った。わたしははっとなった。彼の妹が病気で治りかけだったことは知っていたからである。妹のおどろきとよろこび、そして、うれしさのあまり、彼に抱きついてでもきたら、どんなにか彼は得意な気持ちになれたことだろう。わたしは、ほんとうに恥ずかしいとは思ったが、それを言うのがまた恥ずかしかった。いかにも平気だというような顔をして、むしろ逆に、乱暴で下品な言葉ばかり吐いてしまったのである。彼はひと言も言わなかった。だが、ひとり帰って行ったときの彼の顔には、明らかに傷つけられた人間の表情があった。そして、そのときの彼の顔は、その後も何年となく夢の中に現れて、わたしの心を責めつづけ、恥じ入らせた。もっとも、そのうちには、だんだんと薄れ、いつのまにか忘れてしまってはいたが、今またはっきりと思い出したのだ。

「それだよ、人間ってやつの悪い癖は!ありもしないものを、すぐとあるかのように言うのだ。ほんの耳かきほどの真鍮のけずり屑を、まるで一トンほどもある砂金と取りちがえてしまうんだよ。君たちのもってるユーモア感覚なんて、およそまやかしもののユーモアにしかすぎん。そんな程度のものなら、そりゃたいていの人間が持ってるかもしれんさ。だが、この大多数の人間ってのはね、要するにごく低級で、つまらないものの滑稽な一面。つまり、たいていは誰の目にも一見してわかるような矛盾、おかしさを見てるだけなんだ。言葉をかえていえば、馬鹿笑いの種になるような馬鹿馬鹿しさ、グロテスクな言動しか目に入らないんだね。そして、この世に何千何万と存在する、もっと高級なおかしみというものは、節穴眼でいっこうに目に入らないんだよ。人間がそうした幼稚なやり方の滑稽さに気がついてだよ、そんなものは笑い飛ばしてしまう、――つまりいえば、笑い飛ばすことによって一挙になくしてしまうことだが、そうしたことに気がつく日がはたして来るのだろうかねえ?というのはだよ、君たち人間ってのは、どうせ憐れなものじゃあるが、ただ一つだけ、こいつは実に強力な武器を持ってるわけだよね。つまり、笑いなんだ。権力、金銭、説得、哀願、迫害ー―そういったものにも、巨大な嘘に対して起ち上がり、いくらかずつでも制圧して――そうさ、何世紀も何世紀もかかって、少しずつ弱めていく力はたしかにある。だが、たったひと吹きで、それらを粉微塵に吹きとばしてしまうことのできるのは、この笑いってやつだけだな。笑いによる攻撃に立ち向かえるものはなんにもない。だのに、君たち人間は、いつも笑い以外の武器を持ち出しては、がやがや戦ってるんだ。この笑いの武器なんてものを使うことがあるかね?あるもんか。いつも放ったらかして錆びつかせてるだけの話だよ。人間として、一度でもこの武器を使ったことがあるかね?あるもんか。そんな頭も、勇気もないんだよ」