ヘルマン・ヘッセ『青春時代《ヘルマン・ラウシェル》』

学校へ通うようになるとともに私の人間的な社会生活がはじまった。ここではじまった生活は、小さいながら社会というものの形をとるようにあり、ここの「現実的」な生活の法則と規準が力を得るようになり、ここで初めて努力と絶望、葛藤と人格意識、不満と不和、戦いと顧慮、そして日々の果てしない循環のすべてが行われた。初めて平日と休日が分けられた!我々は時間に従って生活し勉強しなければならぬ。毎日がその重みとしっかりした値打を持ち、特別な時間として一般の時の流れからはずされる。無限なものと考えられていた歳月や季節、みちたりると思われた生活も終わりをつげる。祭日や日曜日や誕生日も、もはや不意の驚きとして現れてくることなぞなく、それらの日時とこれが再びめぐってくる事実は、時計の時刻数字のようにはっきり紙に書き上げられていて、この針がその日を指すまでどのくらい時間がかかるかを我々は知っているのである。

「おれの詩には諧謔だってあるさ、それが詩なんだ!おれがここに坐って、諸君の酒を諸君と飲み、諸君のやけくそになった頭を眺めながら、一方で金や銀や宮殿や御伽噺や宝石のことを心に思っている。これが諧謔さ。諸君が浪費しているものは?諸君が飲んでだめにしてしまうものは何かね?そいつは試験とか少しばかりの財産とかこれを得てもおもしろくなくたいくつにきまっている職務とかだろう。なぜって?こんな代物のために生きるなんてつまらぬことだと、だんだんわかってくるからだ。ところでおれの方は?碧い詩人の空の一片を、おれの空想の国を、おれのパレットの色を、おれの竪琴の絃を、芸術や名声や永遠性の一部を、それぞれぐいぐい飲んでいるんだ。なぜか?このどれもが生きるに値しないからさ。つまりこいつは生きがいあるものでないからだ。それは目的のない人生は索漠たるものだし、目的なぞもった人生は苦しみだからさ」

幸福な感激にひたりながら婦人の美しい絵の前に立っていると、突然その絵の景色のうちからその美しい婦人がいきいきとぬけ出てくることがある。――こういうことを既に体験していない者には、この瞬間、セナークルの連中がどんな気持ちになったかわかるまい。三人は皆椅子から立ち上がってそれぞれおじぎをした。「美しい親愛な婦人よ!」と詩人は言った。「おやさしいお嬢さん!」とルードウイッヒ・ウーゲルも言ったが、カール・ハーメルトは全く何も言わなかった。

「だが教養と知識は別ものだよ。ぼくが考えて危険だと思うものは、人がだんだん勉強して行って陥るあの呪われた知恵というやつだ。何もかもが頭を通らなければ気がすまなくなる。何でも理解し物差で計ることができると主張する。自分自身を試験したり計ったりし、自分の才能の限界を求め、自分を実験する。そして最後に、自分自身や自分の芸術のいっそうよき部分が、うとまれたり気づかれずにすごした昔の幼少の時の感動のうちにだけしかないことを知るが、もう遅すぎるのだ。そうなると人は沈んでしまった純粋無垢の島に腕をさしのべる。しかし、激しい苦痛のどうにも考えられない感動のすべてをあげてこれをやるのでは決してない。それをやっても、そこにはまた一片の知恵、ポーズ、わざとらしさがあるだけだ」

「ラウシェル君」と老人は言い続けた。「きみは美学者であり、善と美との間の狭いが深い谷に橋をかけることが、いかに魅力あると同時に危険なものであるかを、知っているに違いない。この谷はけっして絶対的に分かれているものでなく、ただ一つの統一あるべき実体が分かれていることを意味しており、この善と美との二つはそれぞれが原理というのではなくて、真理という原理の二人の娘であるということは疑えまい。それから、一見したところは互いに疎遠であるばかりでなく敵視しているような二つの峯が、大地の底では一つのものであり、つながっていることをも疑えない。だが、もし我々がこの峰の一つの上に立ち、眼前に口をあけている谷を見た場合、上述のような認識がはたして役立つであろうか?」

「ところで、この深淵に橋をかけることと王女リリアの救済とは、全く同じことを意味しているのだ。彼女は青い花なのだ――これを眺めると魂から重い苦しみがなくなり、この香は精神から無情な頑なさを取り去ってくれるのだ。彼女は気前よく王国をわけてくれる子供なのだ。すべてのすぐれた魂の憧憬を集めて咲いた花なのだ。彼女が成熟し救済される日には、ジルベルリートの竪琴が鳴り出し、ラスクの泉は新しく咲いた百合の花園のうちを音をたてて流れることだろう。そしてこれを見、これを聞く者は、生まれてこのかた悪夢にうなされていたが、今初めて明るい朝の新鮮なざわめきを聞いているような気がするであろう。……しかし今でも王女は、魔女ツィシェルギフトの呪縛をうけてやつれ果てているし、今でもなおあの不吉な時の雷鳴が埋もれた蛋白石城のうちにこだましており、今でもなおその崩壊した広間のうちにはわが王が鉛のような悪夢の枷をうけて倒れているのだ!」

ああ、人々は詩人について、実に多くの悪口を言ったものだが、しかし詩人自身こそその最も恥ずべきことを知っていたし、今も知っている。そしてそれを不安な気持ちでかくしている――他にかくすばかりでなく自分自身の眼にふれぬようにして。

ぼくが美をおおまかによろこんで楽しむことができず、これを解体し、追究し、こまかく分析し、これを芸術的な方法で再建する可能性を考えずにいられないことはぼくの禍でもあり幸福でもある。