レールモントフ『現代の英雄』

道は天に通じているかのように思われた、というのは、目のとどくかぎり登り坂がつづいていて、最後は、グード山の頂に、もう昨日から獲物を狙う鳶のように憩っている雲の中に消えていたからである。雪は足もとできしきしと鳴った。空気はひどく稀薄になって、息をするのが痛いほどだった。血がたえず頭にのぼってきたが、それと同時になにやら喜ばしい感情が全身の血管にみなぎり、自分が世界の上、はるか高いところに位置していることがなんとも楽しかった――子供っぽい感情だと言われても仕方がない。しかし、社会の約束ごとから遠くはなれて、自然に近づくとき、われわれは知らず識らず子供に戻るものなのだ。後天的に身についたものすべてがはなれ落ちて、魂はふたたびかつてそうであったものに、いつかはまた確実にそうなるであろうものになりかわる。私と同じように無人の山をさまよい歩き、その不可思議な姿にいつまでも見入り、その山峡にみなぎる生気にみちた空気をむさぼるように吸いこんだ経験のある者なら、言うまでもなく、この魅力あふれる光景を人に伝え、物語り、描き出したいという私の願望を理解してくれるだろう。

「ねえ、きみ。ぼくは人間を軽蔑したくないからこそ、彼らを憎むんだよ。さもなきゃ、人生はあまりにもいまわしい茶番になってしまうからね」
美しい公爵令嬢はふり返って、長い好奇のまなざしを弁士に恵んだ。その目の表情はまことにあいまいなものだったが、あざ笑うふうではなかったので、おれは心中ひそかに彼を祝福してやった。

ところで幸福とは何か?それは満たされた自尊心である。もしも自分が世界のだれよりもすぐれ、だれよりも強力だと考えることができるなら、おれは幸福だろう。もしすべての人がおれを愛してくれるなら、おれは自身のうちに涸れることのない愛の源泉を見出すだろう。悪は悪を生む。最初の苦悩の体験は他人をいじめることの喜びを教える。悪の観念は、人がそれを現実に用いたいと欲しないかぎり、人間の頭に生まれてこないものだ。観念は有機的な創造物だ、と言ったものがある。それは生まれてくるときから形態をそなえており、この形態が行動なのだ。より多くの観念を頭に生み出すものが、だれよりも多く行動する。だから、役所のデスクにしばりつけられた天才は、死ぬか発狂するかしかない。頑健な体躯の持ち主が家にこもりきりでおとなしくしていると、脳卒中で倒れてしまうのと同じことである。

このとき、彼女と目が合った。彼女の目には涙があふれていた。おれの手に託された彼女の手がこまかく震えていた。頬は燃えるように上気していた。おれが気の毒になってきたのだ!同情――どんな女でもやすやすと征服され手しまうこの感情が、彼女のうぶな心をその爪にかけたのだった。散歩の間じゅう、彼女の放心したような様子で、だれにも愛想をふりまこうとしなかった――これは重大な兆候だ!

「恋をしたことがありますか?」おれはとうとうたずねた。
彼女はじっとおれを見据えて、首を横に振ると、またもの思いに沈んでしまった。何か話したそうな様子がはっきりと見てとれたが、どう切り出せばよいのかわからなかったのだ。胸が大きく波打っていた……どうしようがあろう!モスリンの袖など防御の役にも立たない、電気の火花がおれの手から彼女の手へ伝わっていたのだ。恋というものはたいていこんなふうにはじまる、ところがわれわれはしばしば、女に愛されるのは自分の肉体的、精神的な美点のためだと考えて、自分をあざむいている。むろん、そういう美点は女の心に神聖な火を受け入れるための準備をっせるが、やはり事を決するのは最初の触れ合いなのだ。

いいじゃないか。死ぬなら、死ぬまでさ。世界にとってたいした損失じゃない。それにおれ自身ももういい加減退屈しているんだ。おれは――舞踏会であくびを噛み殺しながら、迎えの馬車が来ないばっかりに寝に帰ることができないでいる男のようなものさ。それでえも、やっと馬車の用意もできた……あばよだ!

「どうしてそんなに悲しそうな顔をしているんです、ドクトル?」とおれは言った。「きみはこれまで百回も、平然としてあの世に人間を送りこんできたじゃないですか?ぼくが胆嚢炎にかかったとでも考えてくださいな。治るかもしれないし、死ぬかもしれない。いずれにしたって自然の摂理ですよ。まあ、ぼくのことは、きみがまだご存知ない病気にとりつかれた患者だとでも思って見てくれればいい、――そうすれば、きみの好奇心も最高度にかきたてられるでしょうよ。ぼくを材料にして重要な生理学的観察をいくつかなされるかもしれない……人に殺されるのを待つなどというのは、もうりっぱな病気じゃないですか?」